京都三条 カフェ・オパール Cafe Opal:Home

Home > 元店主の日記 >

サブメニュー

検索


月別の過去記事


2010年12月13日(Mon)

じゃじゃ馬馴らし 歌舞伎

海老蔵の話題が続き、さすがに飽きてきたので、ここらで亀治郎の話でもしてみようかと思ひます。
実をいふと先月、シアタードラマシティで蜷川幸雄の「じゃじゃ馬馴らし」を観に行ってきたのです。これに、じゃじゃ馬のキャタリーナ役で亀治郎が出てゐた、といふ訳なのですが、この芝居、いふまでもなくシェークスピアですが、知ってゐる人は知ってゐる様に(そして知らない人は知らない様に)、問題作であります。
なにが問題といって、内容がねぇ・・・、もろ男尊女卑!といふか、封建的!といふか。大金持ちの家の娘だが、じゃじゃ馬で強情で男のいふ事をいっかなきかないキャタリーナを、金目当ての男ペトルーチオが強引に娶り、食べ物をやらない、眠らせない、話にまともに取り合はない、など様々な手段を使って“馴らして”しまふ、最終的にはペトルーチオのいふ事は何でもきき、まるで召使ひの様にかしづく女性にしてしまふ、めでたしめでたし、といふ話なのです!

いくらなんでもこれは酷い。よくこんな芝居やったなぁ、と云ひたい所ですが、なんとこの芝居、結構人気があるらしく、シェークスピアの時代から(この頃からすでに、内容が酷いといふ非難があったらしい)現代に至るまで、よく上演されてゐるのだとか。
むろん、上演する側は独自の解釈を施し、色んな工夫を凝らして、その時々の観客に受け入れられる様にやる訳で、さういったチャレンジングな所が人気なのかもしれません。
では、今回の蜷川の芝居は、どの様な解釈・工夫を凝らしてゐるのでせうか。

・・・などと書いたものの、わたし、「じゃじゃ馬馴らし」を観るのは今回が初めてなので、どこら辺が蜷川の工夫で、どこら辺が従来の工夫なのか、判別がつきません!つまり、考察のしやうがない!
う〜む、困った。こんな陥穽があったとは。むむむ・・・(なんかアホみたい)。
とはいへ、これは私の勝手な日記なので、適当に、思ひ込みに基づいて考へてみようと思ひます。

まづ、誰だって思ひ当るのがペトルーチオの描き方です。筧利夫が怪演してゐるのですが、気が狂ってゐるとしか思へない人物に造形されてゐます。絶えず速射砲の様に喋りまくり、それがまた調子の狂った抑揚・スピードで、それに合はせて変なポーズをしまくる、といった感じ。ペトルーチオが出て来る度に観客は爆笑の渦で、本来なら一番憎まれるはずの役を、見事に和らげてゐます。道化なら、酷い事をしても許される、といふ訳でせうか。
対して、亀治郎演じるキャタリーナ。キャタリーナが、必要以上に惨めに観客の目にうつれば、ペトルーチオに対する憎しみも沸きますし、劇が楽しめなくなります。そこで亀治郎は、ペトルーチオの調教を歌舞伎の演技で受けるのです。例へば、飢えに苦しむキャタリーナに、なんやかんやと理屈をつけて食べ物を与へないペトルーチオ。散々苦しめた末に、もし食べ物が欲しければ、俺に感謝しろ、と言ひます。それを亀治郎は、歌舞伎風に顔を顰め、「ぉありがたうございます〜」と大袈裟に見得を切って受けるのです。ここでも、観客は爆笑&拍手です。
むろん私も同じ様に、爆笑&拍手をしてゐた訳ですが、考へてみればこれは随分と酷い場面です。何故この様な場面で爆笑&拍手ができるのでせうか。

残酷な事態を、笑ひで誤摩化す・・・といふ事でせうか。さういった側面はあるでせう。「モンティパイソン」でも「8時だよ!全員集合!」でも、そこで描かれてゐる事態は、結構酷かったりします。酷いこと、といふのは本来をかしみを含んでゐる、といふのは事実でせう。また我々人間は、本来は残酷な生き物なのだ、といふのも事実でせう。しかし、それだけではない。私はここで、様式化、といふ事を考へたのです。

筧利夫のペトルーチオは、まるで壊れた人形の様です。人間が人形になる、といふのは、一種の様式化でせう。亀治郎の歌舞伎演技といふのは、さらにはっきりしてゐます。歌舞伎の演技は、型に基づく、様式化の極地です。では演技が様式化されると、どうなるのでせうか。それは、心理が飛ぶのです。近代的演技に必須のものとされてゐるであらう心理が、無効化されるといふ事です。

ま、古典劇といふのはさういふものでせうが、この様に心理が飛ぶと何が見えてくるのか。それは、剥き出しになった役者の芸と劇の論理、だと思はれます。
我々は(残酷な)事態そのものには関係なく、筧利夫の狂った演技と亀治郎の見事な芸、剥き出しになって提供されたそれらに爆笑し、拍手を送ったといふことです。これは分かりやすいでせう。
が、もうひとつの“剥き出しになった劇の論理”の方。これは少し分かりにくいかもしれません。しかし!私の言ひたいのは主にこちらの方なのです!

いや、ね。私は若い頃はいまひとつ舞台の面白さが分からなくて、文学に於いて王様は詩、次は戯曲、小説はもっとも地位が低いんだよー、などと文学通の友だちに言はれたりすると、えー!ホンマかいなー!詩はともかく、戯曲・舞台の面白さはイマイチ分からんよー!などと言って頭を抱へてゐたのですが、ここ数年、40歳を超へるあたりから漸く舞台の面白さに目覚めてきて、最近では「やっぱ舞台の面白さが分からない様ではダメだな」などと、若い連中に偉さうに言ったりする様になってしまひました。
それで、なーんでそんなに舞台が面白いのか。そんな事をつらつら考へる様になった訳ですが、さういった中で、私の考へてゐるのが“剥き出しになった劇の論理”論です。

えー、この論の要諦はですねー、劇の論理=世の真実、といふ事です。・・・いや、特に根拠がある訳ではなくて、なんとなくさう思ひついた、といふのが実態に近いんですけど、でも、そんな気がするのです。ま、敢て理屈をつけるなら、何故世の中には劇(ドラマ)といふものがあり、人々を魅了し続けてゐるのか、といった辺りから考へついたんですけどね、例へば歌舞伎。あれ、もの凄く封建的な世界の話ぢゃないですか。主従の関係が何より重視され、主人のためなら我が子を殺すのも厭はない、自分が死ぬのは勿論オッケー、といった世界です。
わたし、リバタリを名乗るくらゐですから、メッチャ個人主義なんですけど、だからなんか抽象的お題目(忠義とか)のために個人が犠牲になるなんて許せない訳ですが、それでも「寺子屋」とか観るとボロ泣きするんですよ。何故なんでせうか。
それは正にそこに劇の論理があるから、といふのが私の考へなのです。

封建道徳にしろ、リバタリにしろ、男女平等も、人権も、博愛も、極言すれば時代の齎す偏見ではないかと思ふのです。それらを全て剥ぎ取った所に、物事とはかうなったらかうなる、といふ“劇の論理”があるのではないか、と。優れた劇とは、このイデオロギーや偏見を全て剥ぎ取った所にある“かうなったらかうなる”といふ劇の論理(=世の真実!)を内蔵してゐるが故に、面白いのではないか、と思ふのです。だからこそ、歌舞伎の様に全く思想的・道徳的に納得できない劇にでも、我々は感動する事ができるのではないでせうか。

むろん、優れた文学とはみなかういったものでせう。ただ演劇は、それを同時代を生きる生身の役者が、様式化を極めた芸の力で、正に我々の前に現出させる、といふ所が違ふ。その体験は、一種のエピファニーです。劇場でこそ奇蹟が起こる、とは正にかういった事でせう。我々は奇蹟を体験するために、性懲りもなく劇場に足を運ぶのです。

まとめますと、ペトルーチオを人形化し、キャタリーナを歌舞伎化する事によって、文楽と歌舞伎といふ日本の伝統芸能の力を使って様式化を施す(そしてそれによって芸と劇の論理を剥き出しにする)、といふのが今回の蜷川幸雄の演出の肝ではなかったかと。これが、私の考へです。

でも、まー、素人の演劇談義はともかく、来年もたくさん良い芝居に行きたい、と思ふのであった。亀治郎、どんどん関西に来てね。海老蔵、早く復活しろよ!
(しかし、来年最初の芝居観劇予定は文楽なんですよねー)

Comments

コメントしてください





※迷惑コメント防止のため、日本語全角の句読点(、。)、ひらがなを加えてください。お手数をおかけします。


※投稿ボタンの二度押しにご注意ください(少し、時間がかかります)。



ページトップ