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2007年04月05日(Thu)

夏祭浪速鑑 歌舞伎

 大阪松竹座に『第4回 浪速花形歌舞伎』を観に行きました。

 この公演は3部構成となつてゐまして、私とトモコは第三幕の『夏祭浪速鑑』を観ました。3階席で2000円。安い、ですよね。映画を観る様な感覚で、観劇しました。

 さて、この『夏祭浪速鑑』、浪速といふだけあつて、舞台は大阪です。大阪の男伊達たちを描いた作品で、男伊達といへば江戸歌舞伎が多いなか、一寸珍しい作品らしいです。浪速の男伊達たちの意地の張り合ひ、意気の見せ合ひが、浪速らしい情感を交へながら描かれます。さすが名作と言はれるだけあつて、洗練度合ひが図抜けてゐて、頭から尻尾まで2時間、タップリと楽しめました。ハッキリ言つて、南座の『霧太郎…』とはエラい違ひです。古典の持つ力、時間による洗練の力を、まざまざと感じさせられました。

 ところでこのお芝居、主人公である團七九郎兵衛の悲劇がクライマックスとして描かれるのですが、それを観てゐて、つくづく日本には“法”とか“論理”がないのだなー、と感じました。どういふ事かといひますと、九郎兵衛は命を救つて貰つた恩人に、忠義を尽くす男です。その恩人の息子を必死に守つて生きてゐるのですが、この息子には絶世の美女である恋人(傾城)がゐます。で、この傾城を狙つてゐる悪人がゐるのですが、この悪人から金を貰つて、なんと九郎兵衛の義父がこの傾城を攫つてしまふのですね。実はこの義父、金の亡者である極悪人だつたのです。この誘拐に途中で気がついた九郎兵衛は、必死に追ひかけ、なんとか義父たちに追ひつきます。が、ここで恩人に対する忠と、親に対する孝の板挟みになつて苦しむ、といふ事になるのです。

 ここには“法”といふ観念が全く出て来ません。つまり、人を騙すのはいけない、とか、誘拐はダメ、とか。さういふ観点がまるでないのです。だから九郎兵衛は「オヤジさんの金儲けの邪魔をしてホント申し訳ない。が、その人を守るのは恩人に対する忠だから、まげて諦めてほしい」といつた様な説得に出るのです。説得といふか、ひたすら土下座して頼み込むのです。しかしねー、そんな事を言つても通る訳ないでせう。相手は極悪人なんだから。忠と孝なら、自分に対する孝を優先しろ、といふに決まつてゐます。

 かういふ時に、(様々な条件を勘案して)忠と孝ならどちらを優先するか、といふのが“論理”です。原理=プリンシプル、と言つてもよい。これがまた、ないんですよねー。だから、結局ひたすら相手の情に訴へようとし、宥め、賺し、騙して、誤摩化して、その場を凌がうとします。で、ことが破れて悲劇が訪れる…。

 白州次郎が「プリンシプルのない日本」と言ひましたが、正にその通りで、日本には義理や人情しかないのでせうね。だから、すぐに意地の張り合ひになつたり、心中騒ぎになつたりします。でも、意地の張り合ひがまたカッコ良く、心中がまた美しいんですよねー。て、いふか、それらを徹底して美化してゐるのが歌舞伎です。

 林達夫が、歌舞伎を観てゐる限り日本人には論理的思考は無理だ、と指摘して敢然と歌舞伎と手を切つた気持ちがよく分かります。だつて、こんな美しい舞台を観てゐると、“法”や“論理”なんてチャンチャラをかしくて、ね…。

 いやいやいや、とはいへ、やはりプリンシプルは必要です。どんどんグローバリズムが浸透していく世界情勢で、プリンシプルなしで生き残るのは至難の技です。お芝居の世界でならともかく、現実世界で悲劇連発では笑へない。だから、しつかりプリンシプルを持ちませう。そのためには論理的思考が大切。It's matter of principle。自らの生き方を律する原理を持つのです。

 それでも、時々は歌舞伎に溺れたい。

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