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2012年02月14日(Tue)

「ヒミズ」 []

Text by Matsuyama

懲りもせずよく観るよなぁ、と自分でも思う。しかし、被災地をどうやって映画に取り込むのか、あの大震災を商業映画の中でどう扱うのか、筆者のこの作品への興味と評価はそこに尽きる。

震災がきっかけで急遽脚本を書き替え、被災者に重ねて、主人公・住田少年に「未来を託し」たくて、最後に「住田がんばれ」となったのは許容できる。ではなぜ被災地の映像を映画に取り込まなければならないのか。被害を直接的に伝えるのはジャーナリズムの仕事である。そこは津波によって多くの人の命が失われて間もない場所であり、区画こそメチャクチャになってはいるが、私有地であるかもしれない場所だ。現実の被災地を通して何を伝えたいのか、どのような手法でフィクションに変換して「ヒミズ」の原作との親和を図るのか、それをクリアして映画に取り込むのが映画監督の仕事だ。かなり難しい作業だと思う。その上で大失敗しているというよりも、園子温は何もしていないのだ。

おそらく園子温は、あそこを撮りさえすれば何か伝わるだろうと高を括ったに違いない。作品からは「被災地を映画に取り込む第一人者になりたい」という園子温の浅はかな欲望しか伝わってこない。ベテランの渡辺哲でさえ、あの場所で演技することに躊躇しているのではないかと思うくらいの大根ぶりだ。園子温があの場所で何を表現したいのかが役者に伝わっていないからだ。園子温自身の思いが何もないからだ。

今作で改めて思ったことだが、園子温は「詩を朗読すること」が「詩的」な表現だと本気で思っているのかもしれないということだ。そんな頭の悪いことなんてアリエナイと思われるかもしれないが、「正岡子規と種田山頭火」を並べて「しかし重要なのは尾崎放哉の存在…」なんて授業で教える中学校はいったいどこにあるのか。そうやって俳句、俳人を語る人間がいったい何処にいるのか。単に尾崎放哉の生き様と住田少年が置かれた状況を重ねたかっただけなのはわかるが、あまりにも幼稚なのだ。

園子温が「なぜセックスや暴力を撮るのか?と聞かれる。逆に聞きたい。なぜ日本映画はセックスや暴力を撮らないんだ」と言う雑誌のインタビュー記事を読んで、筆者は「日本映画はセックスや暴力を撮らない」とは思ったことはなかったが、それよりもその質問にちゃんと答えない(答えられない)ことが園子温のすべてを物語っていると思ったのだ。ジョン・ウーの「鳩」よろしく、「ロウソクの部屋」を無意味に象徴づける園子温の最大の暴力は、無意味に被災地を撮ったことなのだ。

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