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2009年05月07日(Thu)

「グラン・トリノ」 ☆☆☆☆☆

Text by Matsuyama

良く言えばシンプル、悪く言えば大味なクリント・イーストウッドの新作は、大盛りのジャンバラヤや、巨大なTボーンステーキを目の前にドンッと出されて「ガタガタ言わずに黙って食え!」って言われたような、かなりイイ意味での大雑把な「これがアメリカ映画だ!」という自身に満ち溢れていました。

またぞろ100点ですが今回は採点の針が振切っておりますです。

前作「チェンジリング」では懺悔を終え天国へ導かれると信じている死刑囚に対し、やり場のない感情をぶつけることしかできなかった女性が描かれていましたが、今作では戦争の中で複数の罪のない朝鮮人を殺しながらも誰からも裁かれることなく、逆に勲章までもらい、贖罪することのひとつの道としての懺悔というものに憤る老人を描いた、冬と夏、裏と表の2部作的要素を持っているようにも思えたのでした。

事前情報とはこわいもので、ウォルト・コワルスキー(イーストウッド)が“偏屈な老人”と語られてしまうことに私は非常に違和感を感じました。日本でも戦前生まれの人は大体あぁいう感じで、私の祖父(生きていれば100歳くらい)もそうだったのですが、姿勢、食べ方、茶碗の持ち方にいたるまで口うるさく怒られたものです。
しかしながら、マナーを知らない息子の家族の面々に対しコワルスキーは実に真っ当なのですが、それをどうみても殻に閉じこもった“偏狭”な老人として描いたのは監督イーストウッド本人であるということも紛れもない事実です。

戦後、日本人の価値観はひっくり返って、戦前生まれの父親たちは子供の躾にさぞ苦労したことでしょう。ゆとり教育なるものは、すでに戦後に始まっていたようなもので、団塊の世代といわれる60代前後ののマトモにアメリカ文化に影響を受けたぬるま湯世代が今、コワルスキーのような世代の人達を後期高齢者といって切り捨てようとしています。文化、作法、尊敬、感謝というような精神の継承は、自由化、民主化という“戦い”の場ではあまり役に立ちませんでした。それを政府が主導していては、真っ当な精神を持った者と、その子孫との間に溝ができるのは当然です。近年、企業の世襲がうまくいっていない原因の一端も(法改正がほとんどでしょうが)そこにあるのではないかと思います。

終盤、けっきょくコワルスキーは無意味だと言っていた懺悔をするのですが、その内容は神父や亡き妻が求めていたものではなかったことに「なんでアメリカはこんな国になってしまったんだ?」という皮肉が込められていたのではないでしょうか。
かつての自動車生産大国の栄光でもあるフォード・グラントリノという名車はおそらくとてつもなく燃費が悪いのでしょう。現在、“兆”を超え“京”という単位にまでふくれあがったといわれるアメリカの借金ですが、その名車は強大な生産力と広大な農地に恵まれながらも、国内需給だけで満足できないアメリカという国そのものを体現しているようでもあります。
アメリカ人が自動車で自由に移動するために地球上の石油を独占すべく他国をレイプしてきた罪を償うべきときが目前に迫りつつあります。それ無しではアメリカが経済的に復興することは許されません。
そして運転技術しだいでは燃費を抑えることができるであろうグラントリノのハンドルを握る者には大きな責任が伴うということです。

劇中、「白、クロ、米食いイエロー、イタ公、アイルランド野郎etc…」といった差別用語(?)を連発しますが、それは移民大国のアメリカで、自分の身は自分で守り、つきあいたくない相手とはつきあわない“自由”を主張してきた“偏狭”な老人の言葉でもありましたが、それは見下し(差別)ではなく、区別であって、干渉しないことでそれぞれの文化の存在を認め合うことでもあります。それぞれの垣根を越えるかどうかは相手しだいでもあり、自分しだいでもあるのです。

イーストウッド出演作へのオマージュや過去の監督作への解答も随所に感じられますが、私にとって嬉しかったのは、床屋のイタリア系アメリカ人とのやりとりです。「荒野の用心棒(1964)」はマカロニ・ウエスタン(イタリア製西部劇、スパゲティ・ウエスタンとも)ブームの火付け役といわれますが、数多あるマカロニ作品の定番キャラのひとつが床屋でした。髭剃りのときに喉元にカミソリをあてることができるため、殺し屋が床屋を装っている疑いがあることで、ガンマンは床屋を信用しない…っていうのがお約束で、それを喜劇的に描いているのが実に微笑ましいことでした。

少し飛びますが、先日亡くなられた忌野清志郎さんは「ミュージシャンは何を歌ってもいいと思っている…」と言論の自由を訴え続け、権力だけではなく権力のイヌであるマスゴミまでも等しく批判していました。リズムがどうとか曲調がどうとかではなく、ロックの命は“反骨精神”なんだと思いました。「あたりまえのこと言うな」と思われそうですが、もう日本にはロックミュージシャンなんていないんじゃないのかな。

イーストウッド以外に誰も有名人が出てなくて、殺風景な住宅地しか映らないけど、こんなにも心に響いてくるのは、やはりそこにも反骨精神に裏付けられた表現の自由があるからなんだと思います。日本映画界にはもう失われてしまったものかもしれませんが…

Comments

投稿者 店主 : 2009年05月09日 02:25

「グラン・トリノ」最高でしたね!!!!!!

絶対に面白い、今年ナンバ−1は確実、イーストウッドの最高傑作になるのでは・・・などと、自分の中でハードルをあげまくってゐたのですが、それでも、軽〜く、そのハードルを飛び越える面白さ!

凄いです。


すでに次作を撮ってゐる、といふのが、また・・・・・・。

投稿者 マツヤマ : 2009年05月12日 00:06

店主の日記ともシンクロしますが、この日観終わった後、MOVIXのロビーでサトウ夫妻と偶然会って、BABAさんの誕生日の件をうかがいました。私の場合はまったくの偶然でしたが。
で、ミクロだかマクロだか言葉の使い方がもひとつ分かりませんが、技術的な進化なんて関係なくて、これが映画の究極の地点なんですね。これがあれば200年目も映画は映画であり続けると確信しました。おおげさですが。

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