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2010年06月06日(Sun)

圧縮文学集成 読書・文学, 可能涼介さん

可能涼介から「圧縮文学集成」(論創社)が送られてきました。

この本は現在は入手困難になってゐる戯曲集・詩集「反論の熱帯雨林」全編に、小説「エピファニー」、可能が様々なメディアに書き散らしてきた雑文のうちいくつか、を合はせた、戯曲・詩・小説・エッセイ・書評・解説文(批評文)など、正に可能の文学を圧縮して造られたものです。
それにしたって、可能の様なマイナーな、ほとんどの人が知らない人間の文学を“集成”してしまって良いのだらうか?とも思ふのですが、もちろん、良いのでせう。“文学集成”といへば、ある有名な文学者が居て、彼・彼女の仕事が多岐に渡り量も厖大で全体像が掴みにくいので、それらをまとめて手っ取り早く分かる様にしたもの、といふイメージがあるでせうが、可能のこの本の場合はそれとは違ふ、と私は思ふのです。
そもそも、可能の事を手っ取り早く分かる必要はないし、そんな事を望む人間も、さうは居ないでせうから。

可能は、もしかしたら本人は否定するかもしれませんが、中上健次からその文学活動を始めました。言ひ換へると、文学の不可能性からその文学活動を始めたのです。
それにしても、文学の不可能性とは何でせうか。そもそも文学とは?

これは、人によって答へは様々でせうが、私は取り敢へず「言葉によって真理を開示するもの」と定義してゐます。・・・しかし、これはまたあまりにアナクロだし、保守反動的な定義です。多くの人が、失笑するのが聞こえてきます。その通り。これは噴飯ものの定義でせう。が、さうなってしまふ事態こそが、文学の不可能性、といふ事だと思ふのです。
可能は、この文学の不可能性を十分承知しながら、その文学活動を始めました。さすがに“可能”と名乗るだけあって、文学の可能性に賭けてゐたのは、想像に難くありません。にしても、どうするのか。むろん、堂々たる文学作品など、恥ずかしくて書けたものではありません。可能は無類のミステリー好きでもありますので、小説を書くなら上質なミステリーを書きたい、と常々言ってをりました。とはいへ、やはり文学に賭けたい。大西巨人の「迷宮」や「三位一体の神話」の様な“文学=ミステリー作品”を書くといふ手もあったでせう。が、可能はとりあへず“詩”から始めました。彼が高校生の時です。

この詩集「異音集」は、実は歌詞として作られてゐます。え?さうなの!なんでそれが分かるの?といふ方もをられるでせう。なぜそれが分かるのか。それは、私がこの“歌詞”に曲をつけるやう、可能から要請されたからです!
無茶な話やなー。と、当時も思ひ、今も思ってゐます。可能は私にギターかベースをやらせ、自分がボーカルでこれらの詩を歌い、デビューする気でゐたのです。(だから浪人の私が、可能のゐる早稲田を受験しに上京したものの、試験をさぼって東京をブラブラしてゐたのが発覚した時には、烈火のごとく怒ったものです)
可能は始めから不可能性にブチ当ってゐたのです。
しかし、これが幸ひしたのか、これ以降、可能は不可能性を追ひ求める様になっていきました。“詩”の次に可能が取り組んだのは“戯曲”です。
幸い、これらの戯曲は演劇界ではそこそこ好評を持って迎へられた様で、いくつかの劇団によって上演もされましたし、芥正彦氏によって上演された「アンチェイン・マイハート」は一部で絶賛されました。
が、可能が常に口にしてゐたのは「上演不可能性」。「俺が書きたいのは上演不可能な戯曲。俺のは“頭脳演劇”だ!」といふもの。多分、ほとんどの人から理解されてゐなかったでせうし、私も「何を訳のわからん事を言ってるんや」と思ってゐました。
今にして思へば、可能は不可能性を追求する事によって、文学の不可能性を突破しようとしてゐたのだと思へます。不可能性を追求するとは、その成立条件を探る事ですし、その様な作業によって、いかにして文学は可能か、を探ってゐたのでせう。

その後、可能は「濃縮」「圧縮」といふ事を言ふ様になりました。これも、最初のうちは私には意味不明で、単純に「長いものを書けないのかな」「そもそも発表するところがないから、書きたい事を圧縮するしかないんだらうな」といふ風に捉へてゐました。これらの感想も、少しぐらゐは当ってゐる所があるのではないか、と今でも考へたりしてゐますが、それはともかく、可能の中では、文学は“石”の様なものとイメージされてきた様なのです。全世界を圧縮した“石”。不可能を可能へと変へるあくまで強い“意志”である“石”。これまで存在した全ての文学者の“遺志”である“石”。何人かの人を治癒する“医師”である“石”。浜村龍造が“縊死”した所から始まる“石”。それを掴んで、世界に向かって投げる事のできる“石”。
しかも、ただの石ころではなく、さざれ石の様に成長する石です。そしてそれこそが、可能の“文学集成”だと、私は思ふのです。
この本に収められた詩・戯曲・小説・エッセイ・批評などは、それぞれがその不可能性を圧縮した石でせうが、それらがさざれ石の様に集まり、巌となったのがこの「圧縮文学集成」です。これでひとつの作品だし、しかも、これ以降も成長していく作品だといふ事です。

転がる石の様に生きるロックスターになる事の不可能性にごく初期にぶつかった可能の活動は、無限成長するさざれ石といふ、ある意味日本文学の本流に連なる様相を呈してきたといへるのではないでせうか。

と、いふ事はだねー、私が上京しなかった事は、それなりに可能のために良かった、といふ事になるのではないか。な、可能くん?

Comments

投稿者 可能涼介 : 2010年06月10日 02:54

小川顕太郎様
そんなこと、言ってましたかね?
四半世紀も経つので、忘れてしまいました。
可能涼介

投稿者 元店主 : 2010年06月11日 00:47

ははは、忘れてしまひましたか。

こちらはあまりに衝撃だったんで、よく覚えてゐます。

「エピファニー」とても面白かった。是非、書き継いで下さい。

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