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2011年01月24日(Mon)

「ソーシャル・ネットワーク」 []

Text by Matsuyama

この作品の原作者であるベン・メズリックの今回の「フェイスブック」を含む5作品(おそらく今後の作品も)の映画化権をケビン・スペイシーの制作会社が所有している。今作は「ラスベガスをぶっつぶせ」に続く映画化2作目。

それらメズリックの5作品は、国家の脅威ともなりうる、実在のアメリカ新世代パワーを描いたもので、ケビン・スペイシーの思わくが映画だけではなく、原作にも影響を及ぼしているのではないかと筆者(筆者?!)は思っている。この作品におけるデビッド・フィンチャー監督や、脚本のアーロン・ソーキンそれぞれの職人技に対する評価は高い。しかし筆者は、ネット業界の革命家ともいえる天才が、なんだか病的で孤独なオタクにしか解釈されていないことを残念に思う。

現在、YouTubeなどで自由に見ることができる実在のマーク・ザッカーバーグの姿は確かに健康的ではないかもしれないが、極度の発達障害のごとくデフォルメされた映画の中のマークとは大きく違っていることがわかる。この膨大なセリフ量の会話劇、室内劇は確かに斬新で、観ている間は、動画検索にハマって時間を忘れるような感覚を持っている。しかしその中に、なんだか「ハンデキャップの成功秘話」というようなハリウッドの古くさい御都合主義が持ち込まれているような気もする。

この作品の原作「フェイスブック」で、フェイスブックを会社として立ち上げたばかりのマーク・ザッカーバーグが、会社を指揮する立場になる自分を「国家の敵」と言うが、この意味は大きい。原作でも映画でも、そこを掘り下げることはせずに、彼の原動力を恨みや嫉妬心のように描いているが、事実はもっとエキサイティングだったと思う。
何がエキサイティングなのか? それは、フェイスブックに関わる彼ら頭脳集団はアメリカ支配層と真っ向から対立する、まさしく「国家の敵」であり、現代の革命家と言っても過言ではないからである。映画でもわかるように、本人の資質とはおよそ関係のない、家筋や、またはそれに伴う排他的フラタニティ(大学の社交クラブでハーバードでは「ファイナルクラブ」という)や秘密結社の出身者が、1世紀以上にわたってアメリカ社会の上層を占めてきたことが、こういった頭脳集団の出現によって、いよいよ終焉を迎えつつあることがここに描かれている。
ネット上のコミュニケーションの発達によって情報統制の通用しない世の中へと移行しつつあることは喜ばしいことである。

映画では単なる“才能ゴロ”みたいにしか描かれていないショーン・パーカーは、フェイスブックの初代社長であり、会社の発展に最も尽力した人物だそうだ。そのショーンが出資を持ちかける、Paypalの共同創業者ピーター・シールの存在はマークやショーンの影で薄れてみえるが、フェイスブックにおける彼の存在意義は非常に大きい。ピーター・シールはリバタリアン(自由意志主義)を自認していて、2007年の大統領選では候補者のロン・ポール氏(共和党リバタリアン派の下院議員)を支持していたという。ロン・ポール氏はネット上での人気が非常に高いことは、市民のテレビ・新聞離れと、ネットコミュニケーションの発達が世論の風向きを大きく変えることを物語っている。小沢一郎もテレビ画面の外ではもはや悪人ではない。

YouTubeで観ることのできる、マークへの辛辣なインタビュー動画は、日本の小沢一郎報道とも共通する「国家寄り」のマスメディアによる偏向報道のようであり、その悪質なメディアの矢面に立つ、実物のマーク・ザッカーバーグはけなげであり、たくましくもある。
そういった意味で、この映画作品の中のマークは「国家」にとって都合のいいキャラクターであると言える。「国家寄り」の偏向報道を今でも是とする多くの一般大衆にウケがよくなければ、商業映画の成功はないのかもしれないが、実名を使う以上は限りなく事実に近づけなければならないと筆者は思っている。この作品の中のマーク以上に軟弱な映画だと、敢えて言わせていただく。

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