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2010年06月01日(Tue)

「運命のボタン」 []

Text by Matsuyama

高校教師のノーマ(キャメロン・ディアス)とNASAの研究所で火星探査カメラを設計し自らも宇宙飛行士を目指す夫アーサー、その息子ウォルターの3人が暮らすルイス家に謎の小包が届く。開けると赤いボタンがあるだけの木の箱が入っていた。その箱の説明に現れたスチュワードという見知らぬ男は酷いヤケドでの左の頬が欠損していた。
<24時間以内にその箱のボタンを押せば100万ドルを手にできる。しかし、どこかで知らない誰かが死ぬ>
その箱を前に悩む夫婦のドラマが延々と描かれることもなく、ノーマはそのボタンを押してしまうのだった。

原作は2007年に3度目の映画化となった「アイ・アム・レジェンド(地球最後の男)」のリチャード・マシスン。監督は「ドニー・ダーコ」のリチャード・ケリー。
映画の時代設定が70年代ということで、携帯電話もインターネットも出て来ないアナログ感覚はシンプルで、当時の不条理モノ特有の意味不明な演出がまたうれしい。とりわけスチュワードの妻が鼻血を流しながら手を伸ばしアーサーを指さすシーンは、鼻血の代わりに奇声を発していた「SF/ボディ・スナッチャー(1978年)」へのオマージュとも思える。

キャッチフレーズは「あなたなら押しますか?」これは実に意地悪な映画だ。監督からの現代人に対する悪意に満ちている。試されているのはルイス家であるのと同時に観客でもあるのだ。
ノーマはボタンを押す瞬間「どうせただの箱よ(冗談にきまってる)」と言うが、100%信じていないのなら押す必要はないのだ。捨てるなり返すなりすればいい。仮に1%でも「ホントかも?」と思ったとして、見ず知らずの人間に100万ドルくれるなんて嘘みたいなことがあれば、どこかで誰かが死ぬという嘘みたいなこともホントにあると思うのも当然だろう。ここで「あなたなら押しますか?」という問いに「自分ならどうかな?」なんて真剣に迷う人間が大勢いる世の中は地獄でしかない。そう思うのは、きれいごと? 偽善? どうとでも言ってくれてかまわないが、オレはそんなふうに言うヤツとは付き合ことはできないね。
もし、ものすごく貧しかったらどうか?という問題でもないと思うが、少なくともルイス家は貧乏ではない。息子ウォルターもノーマの勤める私立学校(教員割引ではあったが)に通わせているくらいだから、どちらかといえば贅沢なほうだ。夫アーサーも2人乗りのスポーツカー“コルベット・スティングレイ”を所有するという、一般的な3人(またはそれ以上)の家庭を支える父親としては考えられない贅沢だ。燃料を自給できないアメリカは国民がそんな燃費4kmとも3kmともいわれる車を趣味で乗り回すために世界中で戦争を繰り返し、どれだけ大勢の命を犠牲にしてきたことか。「一般消費者がそこまで意識するわけねぇだろ!」と思われるかもしれないが、その無神経さがアメリカの戦争経済を支えているのだ。

ノーマは十代のとき、放射線を長時間あてっぱなしにされたという医療過誤によって右足の指4本を失っている。そんなノーマがコワい顔面をさらけ出しているスチュワードに対し、障害者持つ者として「愛(LOVE)を感じた」ということになんとなく違和感を感じてしまうのも監督の意図するところだろう。これは、何故か“感動のヒューマンドラマ”として宣伝されていた「エレファントマン(1980年、デビッド・リンチ)」の後半に描かれる女優やブルジョアたちの偽善や欺瞞(または勘違い)と同様のものである。そういったノーマの人生は、その昔、放射線によるトラウマを抱えながらも、新自由主義に染まるにつれて他人の痛みに対し鈍感になっていったどこかの小さな国に重ねられているようにも思えるのだ。

スチュワードの雇い主は「NASA、CIA、FBI、NSAを支配している」というと、その正体はアメリカのわずか5%といわれる富裕層の頂点に立つ者と安易に答えは出せるとしても、この作品がSFで味付けられた不条理サスペンスである限り、一応は地球外生命体として観るほうが映画として楽しめるし、箱が送られた家庭は夫がNASA関係者ということで、妻がボタンを押す(女はオカネに◯◯?)ということにいちいち引っかかる必要もない。支配者が必要とするのはNASA関係者の夫を生きたまま拘束することと考えれば良いのだと思う。

よってこの映画で描かれる悪とは支配者ではなく、人間の底知れぬ欲望なのだ。オレは利己主義自体がそれほど悪いものだとは思わないし、利他主義が正義だとも思ってない。他人に不利益さえ与えなければ個人の利益を追求する人生こそが正常だと思うのだ。ノーマとアーサー夫妻はボタンを押すか押すまいかと迷う以前にとっくにボタンは押されていたも同然なのだ。これほど観客の心理を巻き込む映画も珍しいと思うし、「シャッター・アイランド」の無意味で過剰な宣伝と本編上映前の演出をそのまま「運命のボタン」で行っても決して違和感はなかったと思うのだ。
もちろん、作品の構造上「あなたなら?」の問いに多くは一瞬迷うかもしれないが、そこであらためて「ちゃんと考えてみろ!」という監督からのメッセージがビシビシと伝わってきたとオレは勝手に思っている。

それでも迷うヤツはいるのかい?

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