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2005年11月11日(Fri)

アワーミュージック ☆☆☆☆★

 今秋、シャンテシネにハーモニーが届く。ババーン! 

 あれはいつのことじゃったか、弥生座初日、最終回の上映の前に、浅田彰氏のトークショウがありまして、「ネタバレは避けますが」と前置きしながら『アワーミュージック』がどういう映画なのか全部語られてしまった!

 最終回の前の回は、上映後に浅田氏の話があったのですけど、そっちを見に行けばよかったかな? と軽い後悔を感じつつ、私などはただ音とイメージの精妙なるカッコよさに茫然とするしかないゴダール作品に、全体をつらぬくテーマをズバーン! と見出す浅田氏の慧眼に感銘を受けました。

 以下、浅田氏のトークのメモです。色々勘違いや記憶の捏造が混じっておりますし、私の文章ではトークの切れ味爽快ぶりを伝えきれませんが、ご容赦ください。

 ゴダールは巨匠であり、ゴダールの新作が新作として京都で上映されるのは、「事件」と言ってよい。

 ゴダールは『映画史』『JLG/自画像』で自らを神格化、「俺が映画だ!」「俺を見ろ!」というとんでもない域に達し、ヘーゲル哲学に匹敵する体系化を果たしたのですが、『フォーエバーモーツァルト』では一転して、築き上げた体系をぶち壊すような、壁をぶち破るような、みずみずしい作品を撮った。70いくつの老人がこのようなみずみずしい映画を撮るとは! 

 そして『アワーミュージック』、また新たな展開を見せ、静謐ともいえる領域に達している。メンデルスゾーンの曲を使うなんていままでになかったことである。

『アワーミュージック』はダンテの『神曲』にならって、「地獄編」「煉獄編」「天国編」の三部構成になっている。

「地獄編」は戦争のイメージの強烈なモンタージュ、「煉獄編」は現代のサラエヴォで開かれたブック・フェアに知識人が集まる。そこでゴダールが学生に向かって講演をする。

 そこで、ゴダールは、「切り返しショット」について語る。「切り返しショット」は「ショットとショットの対立」で、これまでの映画はショットが対立することによって成り立っている。我々は違う技法、新しいテクニックを発明しなければならない……というようなことが述べられる。

 戦争の傷跡がなまなましく残るサラエヴォに、唐突にネイティヴ・アメリカンが現れるのは、対立軸をずらす、対立を無効化するため…なのかも知れない。

 対立するのでなく、そっと寄り添う態度が必要なのでは? この『アワーミュージック』は「寄り添って座ること」についての映画である。他者が寄り添い、それぞれ異なるリズムで呼吸する、その息づかいが奏でる音楽こそが「我々の音楽・アワーミュージック」なのではないか?

「俺が映画だ!」「俺を見ろ!」と言い切ったゴダールが、この『アワーミュージック』では少しひっこんで背景の一人、「地」となっている。「地」に対する「図」は、ブックフェアの取材にやってきたイスラエルのユダヤ人・女性ジャーナリスト、そして、映画の中盤に赤いショルダーバッグを抱えて画面にかけこんでくる女子学生オルガである。オルガは悲痛な運命をたどるが、その後に、これまでのゴダールに見られなかったような、美しい映像が登場する。

 75歳の老人が、「いまさらサラエヴォなんて」という声もものともせず、立ち止まらず進み続けている、そのことに深い感銘を受けざるを得ない。

 字幕について気になった点を2点。ひとつは、ナチスに対して抵抗運動をくり広げ処刑された、「ドイツの良心」と呼ばれる「白バラ抵抗団」のインゲ・ショルの言葉の引用。字幕では「個人の夢は二人のもの、国家の夢は一人のもの」という感じで訳されていたが、少しニュアンスが違う。

 これは、「個人の幸福は、二人で生きることにある、個人は二人で寄り添って生きることを望むのに対し、国家はひとりひとりに分断すること望む」みたいな意味で、テーマに密接に関係しているけれど、字幕だとよくわからない。

 もうひとつ。「ブック・ピープル」という言葉が出てくるが、これを字幕は「ブック・ピープル」とルビを打って「読書人」と訳している。文脈から考えると、この「ブック」は大文字の「Book」ではないか? つまり『聖書』『コーラン』などの教典を信奉する「経典の民」と訳すべきではないか?

 余談であるが、原題『Notre Musique』を「アワーミュージック」と英語に訳して日本語題名としたのはいかがなものか? と。ゴダールのアメリカ嫌いは有名なのに。

 この映画は、映画館で見られることを強く要求する映画である。ゴダールは常々、ヴィデオ・テレヴィは「映画の影」「映画の複製品」と言っているが、まず、映画館のスクリーンはテレヴィに比べてはるかに大きい。だから“偉大”なのである。そして、まったく見知らぬ他人同士が、それぞれの息づかいを奏でつつ横に座って、スクリーンを眺める、そういう場を共有する、そこに映画が映画たる由縁があるのではないか…?

 とまあ、こんな感じでございます。

 まず、私は「映画は、中身を何も知らずに見るとメチャクチャ面白い!」主義なので、今回はそういう主義に反した鑑賞法、ああ、そういえば事前に予告編を見て、映画がつまらなくなってしまうのはこんな感じだったなぁ、と、なつかしい気分になりました。犯人とトリックをバラされてしまったミステリーを読むような?

 とはいえ、当然のことながら非常にスッキリとした浅田氏の読解も、ひとつの見方に過ぎず、多様な見方を要求するのが『アワーミュージック』、というか、ゴダール作品です。私なりの見方は機会がありましたら後日。っていうか、後日はない。

 なんだかよくわからないけど、オープニングの音楽の入り方なんか凄まじくカッコよく、めまぐるしくモンタージュされる戦争のイメージにロバート・アルドリッチ監督『キッスで殺せ』が紛れ込んでいるのは、『映画史』にアルドリッチ監督『カリフォルニア・ドールズ』が挿入されていたのと同じくらい、「よし!」という感じで、文脈から切りはなされた『キッスで殺せ』のワンシーンが恐ろしくカッコよいことでした。

 いつもながら最小限度のスタッフで撮られたと思しきゴダール作品は、あらゆるアメリカ映画が束になってもかなわないくらい豊かなのであった。眼福、眼福。

 また、戦争、宗教、全体主義…みたいなアクチュアルな問題に、真正面から向き合っているのは、やっぱり凄いなぁ、と。「民主主義は、政治と思想が乖離したとき、簡単に全体主義を産みだしてしまうのです」みたいなセリフがサラッと語られてしまうのが、ガーン! とカッコよいです。

 映画館で見られることを強く要求する映画、決してお見逃しなきよう…と言いつつ、もっと音響効果のよい映画館で見たいなぁ、と一人ごちつつバチグンのオススメです。

☆☆☆☆★(☆= 20 点・★= 5 点)

公式サイト: http://www.godard.jp/

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