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2014年12月06日(Sat)

11月25日〜12月1日 etc

BoyHood

リチャード・リンクレーターの新作「6歳のボクが大人になるまで」をTOHOシネマ西宮にて鑑賞。これは主人公の男の子が6歳から18歳まで成長する様を描いた映画。それを、なんとこの映画は12年間かけて撮ってゐるのです。といってもドキュメンタリーではないですよ。れっきとしたフィクション。普通なら、6歳、13歳、16歳・・・とか、何人かの似た役者を集めてひとりの主人公を作る所を、ひとりの役者で通してゐる。しかも、周りの人たちもずうっと同じ。なかなか実験的な映画です。

しかし、確かにそれはアイデアとしては面白いけれど、果たして映画として面白いのか?といふ危惧はありました。観始めてしばらくはその危惧は持続。が、すぐにそれは薄れました。何故なら、単純に観てゐてとても面白いからです。別に特に変はった事が起こる訳でもありません。まぁ、そら離婚騒動とかあったりしますが、ある意味、極普通に人生で起こる様な事ばかりです。でも、それらがとても面白い。ここらは、リンクレーターの語りの上手さでせう。
そして、6歳の少年がちょっと暗めのイイ青年に成長し、周りの大人たちもイイ感じに老けていって、ラストを迎へます。夕陽を眺めながら、知り合ったばかりの女の子と、時間についての会話をする。ここで我々観客は、しみじみとしつつ、ハッとします。何故なら、ここには映画の臨界点が露呈してゐるからです。
映画とは時間藝術です。それだけなら芝居も同じですが、映画はさらに“現実を写してしまふ”といふ特性があります。芝居でも、ひとつの舞台で人の一生を描いたりできます。が、映画は、描いてゐる“現実”をも写してしまふのです。そして“現実”の特性は、一回限りで繰り返しがきかない、といふ事です。それ故、芝居では“2時間45分かけて12年間を描いた”となる所を、この映画では“12年間を2時間45分に圧縮した”となる訳です。
だから、この映画を見終はった後の感慨は、独特です。それは言葉にすると、一瞬の中に永遠がある、といふ月並みなものかもしれないですが、映画といふメディアに独自の質感を持ってゐます。今の私には、それが何なのかを説明する事はできませんが。
ちなみに、私と同時に、6歳くらゐの少年とその母親らしき女性が館内に入ったのですが、彼らは途中で出て行ってしまひました。まぁ、6歳の子供にはちょっと難しいかもしれんわなー。

UN-GO 因果論

アニメ「UN-GO」のエピソードゼロ「因果論」を観ました。これ、話としては特に面白くはないのですが、アニメ本編を観てる時には謎だったり、イマイチ腑に落ちなかった事が分かる様になってゐて、その点で興味深かった。
私がアニメ本編を観てゐる時によく分からず引っ掛かってゐた事は、新十郎は一体何をしたいのか、といふ事。なんのために様々な事件に関はっていくのか、事件を解決する過程で人々の御霊(ミタマ)を集めるのか、イマイチその動機が分からなかったのです。一応、インガに御霊を食べさすため、と言ってゐましたが、さすがにそれだけぢゃないだらう、と思ひ、それならなんのため?と疑問に思ってゐたのです。その謎が、解けました。
なんと!ホントにただインガに御霊を食べさすためだけだったんですねー!
・・・いや、ここにはひとつの誤解があります。アニメ本編を観てゐる時、御霊とは何かがよく分からなかった。なんとなく漠然と、御霊とはその人の“本心”“真実”のことか、と思ってゐたのです。が、それは間違ひでした。御霊とは、“本音”の事だったのです。
建前と本音、の“本音”の事です。むろん、“本音”は“本心”ではないですし、ましてや“真実”ではない。新十郎に「御霊って何だ?」と訊ねられて、インガ自身が答へてゐます。「その人の“叫び”だよ」と。建前によって抑圧された“心の叫び”、それが御霊なのです。つまり、本音。何度も言ひますが、それは本心でも真実でもない。説明しませう。
戦場の子供たちに歌を届けたい、と言ってゐた青年たちの御霊。それは、例へば「日本で歌っても相手にされないから、逃避してきた」といふものでした。確かに彼は、さう思ってゐたのでせう。これが彼の「戦場の子供たちに歌を届けたい」といふ建前に対する“本音”です。しかし、だからと言ってこれが彼の真の本心か、といふと、さうとは限らない。逃避の仕方なんていくらでもあるからです。彼がさういふ逃避の仕方を選んだ深層には、本当に戦場の子供たちに歌を届けたい、といふ想ひがあったのかもしれない。あるひは、もっと別の何かが。はっきり言って、自分の“本心”や“真実”なんて、自分にだってはっきり分かるものではないのです。
では、本音とは何か。それは、分かってはゐるけれど認めたくない自分の考へや想ひ、の事です。本音トーク、とかが下らないのは、それが単に露悪トークに過ぎないからです。普通なら認めたくない考へや想ひを積極的に認めてゐるだけで、それは本心でも真実でもない。本心や真実なんて、誰にも分かりはしないのだから。
しかし、それでも世の中は「一応これが真実だ」といふものがないと回らない。そこで、誰が真実を決めるのか、といふ問題が起こる。海勝燐六は、統治者の立場から“真実”を決める。世の中を乱さない様、綺麗に収まる様に真実を決めていくのです。たとへそれが事実と違っても。これは大人の立場であり、権力者の立場です。
これに対して、新十郎は異議を唱へる。しかし、別に“本音”が“建前”に対して優位でも何でもないのだから、彼の行為は駄々っ子の様に見えたりします。いくら人々の御霊=本音を暴いても、それは真実には関係ないし、世の中を揺るがす事もない。そんな事は新十郎も十分承知のはず。しかし、それでも新十郎が自らの活動を止めないのは、一人の女性の存在が大きいのかもしれません。その女性は、御霊を吐き出す直前に「私の真実を他人に決めさせない!」と言って、自ら命を絶ったのです。
実はこれはもの凄く重要な問題だと私は考へてゐます。これは大西巨人が問題にし続けた「秘密の尊重」といふテーマに関はる事です。たとへそれが世の中のために必要であっても、他人のためになる事であっても、私の真実を他人に決めさせる事は絶対に許さない。この文学的なテーゼに於いて、新十郎は安吾と交差する!
やはり新十郎は、単にインガに御霊を食べさすためだけに活動してゐたのではない様です。

インターステラー

クリストファー・ノーランの新作「インターステラー」をMOVIX京都で観ました。私はどっちかといふと反ノーラン派でして・・・、ノーランの映画はいっつも、なんか面白さうなんだけど、引っ掛かる所が多過ぎて、見終はった後に、なんぢゃそらー!!!と叫び出したくなり、その後はずうっと文句を言ひ続けてしまふ、といった感じなのだけれど、つい、新作は観に行ってしまふ・・・。
で、今回も懲りずにまた観に行ってしまった訳なのですが・・・な、なんと!素直に楽しめてしまったよ!いいやん、今回、ノーラン。
私がいつもノーランの映画を観てゐてイライラするのは、自分の背丈以上に賢こぶってる奴・・・みたいな感じが垣間見えるところです。いや、君は凄くカッコいい画を撮る事ができるし、明らかに才能があるんだから、下手に賢こぶる必要はないんだよ!と言ひたくなるのです。なんか偉さうな物言ひですが(オッホン!)。
それが今回、その欠点が払拭されてゐる、様に思へます。なんか日本のアニメみたいな話を、大真面目に撮ってるのですが、嫌味がない。フランスのマンガを映画化したポン・ジュノの「スノーピアサー」より、よっぽどちゃんとマンガになってゐる。って、本人は別にマンガのつもりで撮ってないでせうが、一見SFみたいな意匠を纏ってゐるものの、本質はマンガっぽい。愛は時空を超える、といふファンタジーでせう。セカイ系?いや、ちょっと違ひますが、いい感じです。
これからも、こんな感じでお願ひしたいものです。

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