京都三条 カフェ・オパール Cafe Opal:Home

Home > 元店主の日記 >

サブメニュー

検索


月別の過去記事


2008年02月06日(Wed)

スィーニー・トッド 映画

 MOVIXで「スィーニー・トッド/フリート街の悪魔の理髪師」(ティム・バートン監督)を観ました。

 まー、例によつてネタばれも含んで思ひついた事をダラダラ書きますので、まだ観てない人は読まない方がよいでせう。また、もう観た人も、自分なりの「スィーニー・トッド」を大事にしたいのなら、私の主観に満ち満ちた文章は読まない方がよいと思はれますー。

 さて、無実の罪を着せられ刑務所に送られ、美しい妻と娘を奪はれたスィーニー・トッド(ジョニー・デップ)は、(多分脱獄か何かをして)街に15年振りに戻つて来て、復讐を誓ひます。15年前に自分が使つてゐたカミソリを手にし、「これでオレの腕は完全になつた!」と叫ぶのです。

 ここで、ジョニー・デップ及びティム・バートンファンなら、いやでも思ひ出さざるを得ない映画があるでせう。シャキシャキーン! さう、同じ主演 & 監督コンビで撮つた「シザーハンズ」です。おお! ジョニー・デップがシザーハンズならぬカミソリハンドになつた!! ……が、ここでは大きな違ひがあります。シザーハンズは、手がハサミな訳ですから、愛する人に触れたくても、それがそのまま相手を傷つける事になる、といふジレンマを抱へた存在です。つまり、その「(手の)不完全さ」故に、愛を求め・与へやうとすればするほど、誤解され、傷つけ・傷つけられてしまふ、といふ存在だつたのです。ところがトッドは、この象徴的に不完全なはずの手を「完全」と呼びます。これは彼が、愛する事と憎む事の区別をつける事ができなくなつた存在だ、といふ事を示すでせう。その事は、愛する自分の娘を殺さうとし、妻に至つては本当に殺してしまふ、といふ結末からも明らかだと思はれます。

 んで、何が言ひたいかといひますと、まー、そんな復讐の念に燃えて愛から見放された男であるが故、トッドはあんまり魅力的ぢやないんですねー、個人的に。あるひとつの目標(この場合は復讐)にあまりに固執し、それしか見えてない人間といふのは、例へばストーカーであるとか、受験勉強ばかりしてるガリ勉とか、そんな感じで人間的魅力に欠けるんですよ。硬直してゐて、柔軟さがない。貧困な感じです。シザーハンズの持つてゐた、二律背反・矛盾の豊さを失つた、干涸びてしまつた存在です。

 それに対して、圧倒的に魅力的なのが、このトッドを愛し、支へるミセス・ラベット(ヘレナ・ボナム=カーター)です。彼女は愛に溢れてゐるが故、柔軟で豊穣です。例へば、殺すだけ殺しておいて、死体の始末の方法にまで思ひ至らぬトッドに対して、それでパイを作つて売ればいいんぢやないか、といふ秀逸な(?)アイデアを出したのもミセス・ラベットです。彼女は愛する男を支へるため、そしてその男との幸せな生活をゲットするため、様々な知恵を巡らし、臨機応変に物事に対処し、果敢に行動します。彼女こそこの映画の要、真の主役といふべき存在なのです。とはいへ、最後にはトッドに殺されてしまふんですが…。

 ところで、殺されたとはいへ、やはりミセス・ラベットは映画に祝福されてゐます。その事は、殺され方を観れば分かる。トッドは、「わが友」と呼ぶカミソリを使つて人を殺します。この「わが友」が、「マイディック」、つまり自分の性器の象徴だといふのは、まー、分かりますよね? こんなの、イロハのイでせう。で、先程も述べた様にトッドは“愛と憎悪の区別がつかない”男ですから、この「カミソリ=マイディック」による殺人は、レイプみたいなもんなんです。みんなトッドにやられ(殺られ/犯られ)まくつてゐるのです。ところが、ミセス・ラベットだけは、カミソリで殺されません。釜の中に放り込まれて、焼き殺されるのです。つまり、ミセス・ラベットは、トッドに汚されなかつたのです。これが映画に祝福されてゐるのでなくて何でせうか! ドン!(←机を叩く音)

 てな訳で、やはりヘレナ・ボナム=カーターは最高だ! …と述べて今日はこれまで。

Comments

コメントしてください





※迷惑コメント防止のため、日本語全角の句読点(、。)、ひらがなを加えてください。お手数をおかけします。


※投稿ボタンの二度押しにご注意ください(少し、時間がかかります)。



ページトップ