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2007年03月31日(Sat)

リバタリとは? リバータリアン

 Hくん & Nさん来店。お二人から、「“店主の日記”を読んで“リバタリ”といふものを知りました」と言はれました。なるほど。さうかもしれません。しかし、私は一寸、動揺してしまつたのですね。なぜなら、私のいふ“リバタリ”は、多分本来の“リバタリアニズム”とは少し(結構?)違ふものだと思ふからです。

 本来のリバタリアニズムは、アメリカで生まれた思想で、どうもその元はアイン・ランドといふ人らしいのです。ところで私、アイン・ランドの本は(『水源』といふ代表作を持つてはゐるのですが)読んだ事がないのですね。はは、不勉強ですみません。

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 しかし、様々な他の文献から、大体こんな感じだらう、といふ当りはつけてゐて、それから推測するに、どうもリバタリアンの本流(?)の人たちは、ベンサムやミルの系譜をひく功利主義者らしいんですよねー。実際、日本におけるリバタリアニズム紹介の最有力者である副島隆彦氏は、リバタリアンをベンサマイト(ベンサム主義者)として紹介してゐます。

 ベンサマイトとは何か。それはポジティブ・ローの考へに立つ、といふ事で、つまり「法は神や自然や伝統が決めるのではない、人間が決める」といふ立場です。で、その人間が“法”を決める時の根拠ですが、これが“なにがみんなにとつて利益になるか”といふ事。最大多数の最大幸福、といふ奴ですね。この様な考へを、功利主義、といふのです。

 しかしねー、私はどうも、この“功利主義”といふ考へには賛同しきれないんですよねー。さきほども述べた様に、功利主義とは、人間の法(何をなすべきか、何をしたらダメなのか)を、神や自然や伝統にもとめるのではなく、“みんなにとつて利益になるのはどんなことなのか”といふ基準を基に、人間の頭(理性)で考へて作つていく、といふ考へです。リバタリアンは、絶対自由主義・絶対個人主義で、自分のことは自分でする、自分のことは自分できめる、といふ立場ですから、かういつた“法は自分たちで決める”といふ考へに同調するのでせう。

 しかし! しかし、ですよ、やはり私は、かういつた理性万能主義(人間の頭で全て決められる)には懐疑的にならざるを得ないのです。人間の理性はそこまで(法を定められるほど)万能であらうか? そんな事をすれば予想外のトンデモナイことになるのではないか? といふ気持ちが消せません。実際、ベンサムは一方で「英国全体主義思想の父」とも言はれてゐて、この功利思想やポジティブ・ローの考へが、ナチズムを生んだと言はれてゐます。そもそも私はフランス革命にも否定的で、あの啓蒙思想・理性万能主義の政治的活動が、ナチズムや収容所列島や北朝鮮を生んだと考へてゐるのです。やはり人間の頭で考へたユートピアなんて、この世では地獄としてしか現れないのではないでせうか。

 確かに神や自然や伝統には不合理な部分が多く、それが人間に対して抑圧的に働くことがあります。が、一方で、人間の理性を超えた知恵を含んでゐるのも事実で、それが地獄への道を防ぐ枷ともなつてゐると思ふのです。その枷を外してしまふと、善意に基づいたディストピアが現れる、と。

 リバタリアンは絶対自由主義で絶対個人主義なので、もちろん社会主義には大反対です。ここまでは私と一緒。が、あんまりにも神や自然や伝統を軽視・敵視して、自分の理性を信じ過ぎると、自分の敵と同じ穴の狢になつてしまふ…と、思ふので、どこかで神や自然や伝統に対する畏れを持つておくべきだ、と私は考へてゐます。私の場合は、日常の生活態度はリバタリアン的、そしてそれを補ふものとして心の底に尊皇感情を持つ、といつた所でせうか。(この“尊皇感情”といふのは、天皇陛下に象徴される日本といふものに対する尊重感情、とでもいつたもので、いはゆる“愛国心”といはれるものとは少し違ふ、といふ含みを持ちます)

 実を言ふと私のリバタリの師匠は、クリント・イーストウッド(の映画)です。イーストウッドの作品には、強烈なリバタリ的思想とともに、その底には人智を超えたものに対する畏れが密かに流れてゐる、と私は思ふのですが……。

 ま、以上が私の“リバタリアニズム”ならぬ“リバタリ”でしたー。

Comments

投稿者 もんとれ~ : 2007年04月22日 06:18

なるほど~。いつも(と言うか久々に拝読させていただきました。)勉強になります。
理性はあてにならないですよね~
最後のイーストウッドと聞いてやはり、と勝手に納得してしまいました。

投稿者 もんとれ~ : 2007年04月22日 08:14

7・8年前お世話になっていたファンです。
久々に覗かせていただきました。

投稿者 店主 : 2007年04月22日 16:12

もんとれ〜さん こんにちは
さうなんですよねー、理性万能主義は胡散臭いですよねー。
とか言ひながら、日本人に果たして理性万能主義者が居るであらうか?とも思ふのです。所詮、日本人にとつては理性万能主義(とそこから派生した社会主義・共産主義)は輸入品で、信仰の対象なのではないであらうか。つまり宗教や伝統と対立するものではなく、同じ様なものなのではないか、と。
そんなこんなを考へるに、一度は自分の頭で考へろよ、と言ひたくなります。かういつた我々日本人に対する不満が、私をリバタリに駆り立ててゐるのでせうねー。
もんとれ〜さんも、またオパールにお立寄下さいね。

投稿者 デルタ : 2008年07月03日 00:50

店主様、はじめまして。
だいぶん立ち位置が違いますが、私もリバタリアンを自称しています。今後ともよろしくお願いします。

言っておられることは、「理性」への懐疑というよりも、「正解(断定的な結論)」への懐疑ではないかと感じました。
多くのリバタリアン(代表的な人を挙げると、Mロスバード)は、功利主義と根元的な部分で対立しています。「多くの人の利益」のために、「ある特定の人の権利」を侵害していいのか……それが「正解」と、あるいは「正義」と呼べるのか、といった具合に批判しているのです。(副島氏が、このあたりを誤解しているのですが)
店主さんの言っておられることを、仮に「人は間違うものである」という前提を共有していると感じた次第なのです。

投稿者 店主 : 2008年07月04日 00:45

デルタさん こんにちは

>多くのリバタリアン(代表的な人を挙げると、Mロスバード)は、功利主義と根元的な部分で対立しています。

おお、さうだつたのですか!勉強不足故、そこら辺りが全く分かつてゐません。そのロスバードとかいふ人も知りませんし・・・。御教示ありがたうございました。
私の理解では、えー、リバタリアンは(政治的)自由といふものを最大限に尊重する、と。でも、各人の自由をなんでもかんでも尊重すると、社会がうまくたちゆかないので、とりあへずのルールみたいなものが必要となる。で、その基準を、「正義」や「真理」ではなく、とりあへずの功利主義的な判断、に任せよう・・・・・・といふ事なのかなー、と思つてをりました。それ故の市場原理主義なのかな、と。
でも、少し違ふのですね。実をいふと、私もここら辺りは自分の中で整理がついてゐないので(といふのも、この問題にブチ当ると、どうしても自分は保守主義者である、と自覚せざるを得なくなつてしまふからです)、また勉強し直してみます。
なにせ私も“間違ひだらけ”の人生ですからー。ははは。

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