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 Diary 2001・6月22日(FRI.)

書字ノススメ

 賛交文化サロンで私が墨をすっていると、それを見たテラダさんが「あ、石川九楊ずりやな」と言う。それは何かと私が問えば、墨を斜にしてするのを「石川九楊ずり」とテラダさんは呼んでいるそうだ。これは石川九楊の書いた入門書には墨のすりかたとしてこう載っていること、さらには私が石川九楊の本を好んで読んでいることから、からかってこう言ったものと思われる。

 テラダさんに拠れば、京都で「石川九楊摺り」をしている人はほとんどいないらしい(むろん素人は除く)。ではどのように墨をすっているかというと、墨を垂直にたててする、という方法だ。テラダさんは言う。「墨は肺病やみの女の子にすらせたらいい、というくらい、軽くする方がいいねん。墨を斜にすると、素人でも楽に力が抜けるから勧める人もいるけど、接地面が少ないぶん、するのに時間がかかる。だから墨を垂直にたてて、うまく力を抜いてする事を覚えた方がいいよ」。なるほど! 合理的。今度からそうしよう。

 ところで石川九楊だが、この人の本はなかなか面白いです。書論ももちろん書いているのだが、社会や時代に対する批評もけっこう書いていて、これがまた面白い。

 書字中心型の日本語社会において、文化とは書のことであり、日本の美意識は、日常的な書字の反復による経験の蓄積によって培われる。だから現在のように書が軽視されている日本には美=スタイルがなく、醜悪だ。というのが基本認識で、ここから書字ノススメに至る。大いに納得できる主張だ。

 また筆使いは箸使いに通じ、正しく箸を持ち、それを丁寧に扱うことによっても、「おもいやり」「優美」などの日本の美徳は培われてきた、という。「ひとりひとりが、感謝をこめて食事をし、心をこめて、ていねいに文字を書いていた場を土台に、無数の美神は生まれて出ていった。」(『書字ノススメ』新潮文庫)

 石川九楊は激烈な反ワープロ論も展開しており、「とりわけ、教育や家庭には、文章作成機(ワープロ)や個人用電子計算機(パソコン)を入れないこと、すでにある学校や家庭は、これを放出することである」と述べる。

 文字で考える我々日本人は、例えば「雨が降る」と文字で考え、「雨が降る」と書きたいと思うのに、ワープロでは「amegafuru」と書かねばならない。思考というのは、脳のみによって成されるのではなく、全身的な行為なので、「雨が降る」と考え「amegafuru」と書くこのズレ・分裂は、いまだ未熟な人間にとって決定的なマイナスとなる。真に思考する力を育てない。と主張するのだ。これも大いに納得。パソコンとかにヘラヘラと字を打ち込んでいる若者をみると、どうしてもバカっぽくみえてしまうし、ネット上の文章の大半がバカそのものなのも、こういった主張を補強するように思える。まあ、私の場合はオイシンから得た印象が、かなり現在の若者像のもとになっているので、偏っているとは思いますが。

 なんにせよ…日本人よ! ワープロを捨てて、筆を持て!! ディメンテッド・フォエバー!!

小川顕太郎 Original:2001-Jun-24;