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 Diary 2000・7月23日(SUN.)

「自己責任」と「戦争責任」

 沖縄サミットが開催中である。ところで「沖縄サミット」って何? なんでそんなに騒いでいるの? と問えば、日本では東京以外で行われる初めてのサミットだから、とかいう答えが返ってくるのだけれども、それでは良く分からない。で、思わず雑誌『インパクション/特集・沖縄サミット』を買ってしまった。読む。

 やはり、というか、基地問題で主に揉めているようだ。勿論これはサミットの議題ではなく、サミットで基地問題を話し合って揉めているのではない。そうではなく、沖縄でサミットを行うという事自体が、反基地闘争を押さえ込もうという意図がある、という事だ。ううん、しかしまあ、この問題はとりあえず横に置いておきましょう。私が興味深く思った事は他にある。それは、サミットに反対する人達の論理とでもいったものだ。

 サミットというのは、先進工業国首脳会議ともともと訳されていたように、先進工業国が自分達の利益をいかに守るかという事で始まった経済会議である。きっかけはオイルショックで、石油産出国が先進工業諸国に対して発言権を強めてきたのに対して、いかに対処するかという事で 1975 年に始まっている。要するに、先進工業諸国が自分達の経済支配をいかに維持していくか、というのを話し合うのがサミットな訳だ。で、冷戦以後のサミットの方針というのが「グローバリズム」。規制撤廃を押し進め、全世界を一元的な市場にしてしまおう、というもの。

 だからサミットに反対する人達というのは、基本的にアンチ・グローバリズムの立場に立っている訳だ。グローバリズムというのは、資本の論理の貫徹というか、規制撤廃の名の下に、様々な伝統や習慣を破壊していく性格を持っている。伝統や習慣の中には、壊してしまった方がよいものもあるだろうから、グローバリズムのこの性格が一概に悪いとは言えない。が、忘れてはならないのは、グローバリズムの押しつける市場のルールというのは、基本的に強者に有利に作られているという事だ。強者は自分にとって有利なルールで闘って、勝ち、そして弱者に向かってこう言う。公正なルールの下で闘って負けたのだから、負けたのは君たち自身が悪い、「自己責任」をとれ、オレは面倒はみないよ、と。

 例えていえばこうだ。野球部と囲碁クラブの間でもめ事が起こったとする。その時に野球部が「よし、こうなったら勝負で決着をつけよう!」といって、野球の試合を強制するようなもの。ハンディを貰ったって囲碁クラブに勝てる訳がない。それでも野球部は勝った後にこう言うだろう。「ハンディまで貰って負けたんだから、自分が悪いよな」。これが「自己責任」である。

 この理屈に腹が立つのは分かる。勿論、囲碁クラブも頑張って野球の練習をすればいいのだが、当分の間は勝てないだろう。それに、なんでそんな事をしなくてはならないのか。だからグローバリズム=アメリカニズムと言われ、アンチ・グローバリズムの運動が起きるのも分かる。が、ここでひとつひっかかる事があるのだ。

 グローバリズムは、伝統や習慣を壊すので、保守派の人達の間にも反対派はいるだろう。が、私が問題にしたいのは、この『インパクション』などに集う「左翼」の人達の事である。この「左翼」の人達は、まず間違いなく「戦争責任」という事をいう。しかし、この「戦争責任」というのは、「自己責任」と同じものではないのか? 「戦争は悪いことだ」というのは、支配者に都合のよい「ルール」である。このルールの下で世界が運行される限り、被支配者は、戦争という最も強力な手段を使って支配者を倒す事が出来ない。「それでいいではないか、戦争反対! 平和のうちに抗議と話し合いで事をすすめていけばいいのだ。戦争をしても支配―被支配の関係が逆転するだけだ」と言われるかもしれない。しかし私は支配―被支配の関係がそう簡単になくなるとは思えないし、何より、支配―被支配の関係を逆転させようとして敗れた国に「戦争責任」をもとめる事は、現在の支配―被支配の関係の起源を隠蔽する事になると思う。つまり、現在の支配者は正にその「戦争は悪いことだ」というルールに反して戦争をして勝った者なのだ、という事実を。

「いや、そんな事はない。我々は戦勝国の戦争責任もきちんと追求している」と言われるかもしれない。しかし、強者というのはズルをやり放題だ、というのはゲームの裏鉄則である。これはグローバリズムでも同じで、規制撤廃とかいいながらも、自分達がやばくなれば勝手に関税を設けて保護貿易に居直るし、自由競争とかいいながらも、ヘッジファンドなどで勝手に株価を操作したりする。で、その事をいくら指摘しようが、彼等は別段平気だ、という事だ。損をするのは「自己責任」をもとめられる敗者である。で、「戦争責任」というのも同じようなものではないか、と。

 私が何故こんな事を考えたのかというと、『インパクション』に沖縄の戦争責任を訴える文章が載っていたからだ。普通、沖縄といえば戦争の犠牲者として語られがちである。が、沖縄にも戦争責任がないかといえばそんな事はない。あると言えばある。沖縄だって大日本帝国の戦争の一端を担った訳だし、戦後も沖縄の基地はベトナム戦争などにおいて重要な役割を果たしている。が、そんな事をわざわざ「戦争責任」といって言い立てる事があるだろうか? グローバリズムにおける「自己責任」という概念と同様、この「戦争責任」というのは勝者に騙されていないか? 私は、アンチ・グローバリズムの立場に立つのなら、「戦争責任」などという言葉は使うべきではないのではないか、と考えた。それでは同じ穴の狢である、と。

 うわわわ、長い日記になってしまった。最後にこれだけは記しておこう。

 今日、タケダくんやヤマネくん等が、一級建築士の試験を終え、開放感に満ちた顔でやってきた。「また来年、来年!」と騒いでいる。ワインのボトルを 2 本ほど開けて帰っていった。さてどうなるのか。もし、みんなが試験に合格していたら、クルージンの代わりに「一級建築士ナイト」でもやりますか。

小川顕太郎 Original:2000-Jul-24;