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サラテク 9
解説

Salaryman technocut

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サ ラ リ ー マ ン テ ク ノ カ ッ ト 9

 机に向かって仕事をしていると様々な通達・郵便・資料がまわってくるが、その中で一風変わったものとして他の課からまわってくる斡旋販売のおしらせがある。ケーキ・ラーメン・米・ハム・酒などほぼ全てが食品関係なのだが、これは私の勤めているのが食品会社であり、取引先である食・酒系問屋や小売店から自分の会社で物品を売ってくるよう強制されるのが斡旋販売なのであるから当たり前の事であろう。このような事があるのは予想していたとはいえ、はじめて斡旋販売に直面した時は、日本には自由競争も市場社会もないという欧米の識者がよくする指摘の実例がささやかながらも目の前に投げ出されたという快感もあったものの、やはりムカッ腹がたった。社会に入るまでは情に訴えられたり、圧力をかけられたりして物を買わされた経験がないので、ぬぐいがたい嫌悪感におそわれた。商品がうごかなければ景気もよくならないとか、お互い持ちつ持たれつやとか色々ごたくは並ぶだろうが、会社経営のしりぬぐい・つじつまあわせを個人に押しつけるならば本末転倒ではないか。法人のために個人が犠牲となる、こういうのを全体主義というのではないか、などと心の中で怒り猛り狂っていたわけである。

 しかし最近では斡旋販売の紙がまわってくると怒りというよりむしろ憐れみを、その斡旋販売を行っている担当者に対する同情を感じるようになってしまった。私の上司がヒラの頃はクリスマスケーキの売れ残り 50 個をむりやり買わされて仕方なく近所の家に売ってあるいた、などという恐ろしい話もあったようだが、最近はそれほどでもなく、建前上はもし欲しい人がいるならば安く売るので会社で買いたい人を募って下さい、という事になっている。とはいうものの誰も欲しい人がいずひとつも売れませんでしたで済むはずがなく、有形無形の圧力で担当者の胃には穴があかんばかりなのが実状である。無論最初から斡旋販売など受けなければいいのだがこれも不可能に近い。というような事を自分が斡旋販売を引き受けるようになってから実感させられた。

 私の担当しているのは百貨店なので百貨店からの斡旋販売という事になるが、基本的には新茶・松阪牛肉・たらばがになど食品関係が多いものの、他の課と決定的に違うものがひとつある。それはスーツの出張販売である。スーツの布・ワイシャツ・ネクタイなどをわざわざ会社に持ち込み社員相手に百貨店の人が直接販売を行うこのスーツの出張販売の斡旋は、食料品の斡旋販売に較べるとつらい点がいくつかある。まず単価が高い、わざわざ売っている所(会議室など)まで皆に足を運んでもらわなくてはならない、そして何よりスーツはそう簡単に消耗されない。1 年に春と秋の 2 回、毎回数企業が行うのだが、みんなそんなにスーツが要るわけないのである。

 スーツの出張販売の時期が近づくといつも胃が痛くなる。私は皆に頼むからスーツを買ってくれとは言えない。それは許されない事だ。斡旋販売を引き受けるだけで日本の会社主義という名の全体主義に加担しているというのに、ましてやそれに他人を巻き込むなどという事は。当然の事ながら私も買わない。斡旋販売においてはそれを請け負った担当者とその上司は責任をもって商品を買うという暗黙の了解事項があるらしく私が買わないといった時もかなりの非難の声があがったのだがその時に私が抵抗の拠り所としたのが I am MOD という事。やぶれかぶれながら「モッズはこんなスーツ買わないんですよ。」とのたまえばそれが通ってしまったのだから世の中わからないものだ。

 というわけで私自身はスーツを買わずに済んでいたのだけれどもかといってそれで少しはマシかというと精神的には買わない方がよっぽどツライ。それは私の上司の存在があるからで、上司は私という不肖の部下を持ったばかりに止めたい止めたいといいつつ毎回きちんとスーツを購入していて、春と秋に数企業ずつなので一年で約 5 〜 6 着、課長職に就いてから 6 年はたっているのですでに 30 着以上のスーツを購入している計算で、財布の中身は本当に苦しそうだ。その課長が昨年に念願の一軒家を手に入れた直後に行われたスーツの出張販売の前日、私にこう言った。「今年は家を買ってどうにも苦しいからスーツはかんべんしてくれ」私は「まかせてください」と言うしかなかった。要するに私が頑張ってみんなにスーツを買ってもらい課長がスーツを買わなくてもよい状態にすればいいわけだ。いいわけなのだが、やはりというか物事というのはうまく運ばないもので、私が自らの倫理に反し「スーツ買ってくれないでしょうか」と何人かに声をかけたにもかかわらず、なんと一人も買ってくれなかったのだ。絶望的な気持ちを胸に呆然とたちつくす私を襲ったさらなる衝撃はスーツを購入する課長の姿だった。一着も売れないままで帰すわけにもいかないと泣く泣く買ったのだろうけど泣きたいのは私の方も一緒で、こうなれば私も買わざるを得ないではないか。

 人間は妥協する時、常にもっともらしい口実をみつけるものである。私の場合は百貨店の人がイージーオーダーとはいえ好きな形に仕上がるまで何度でも作り直すと言った事で、それならばモッズスーツをつくってしまえばいいではないかと自らを誤魔化したのだ。もちろん問題はそんな所にはなく、社会そのものを腐らすこのような販売方法に参加するかしないかという所にあるのだが、弱い人間である私はまたしてもテクノマンとなる可能性を捨ててしまったのだ。

 この後の展開はおそまつなものである。色々細かく注文をつけたにもかかわらず出来上がってきたスーツはモッズスーツとは似てもにつかないしろもので、さっそく作り直しを命じたのだが二度三度やり直してもちっとも思い通りのものができない。そのうちあんまり何度もやり直しを命じるのがつらくなってきて、いいかげんな所でもういいやと妥協してしまったがために、私のスーツはまるで阪急電車の駅員の制服になってしまった。

 さてバブル経済というものは、さらなる経済進出のための設備投資を強化するために個人のお金を企業に流すべく大蔵省と一部の一流企業が演出したものだという説がある。私はこの説のどこまでが正しいのかわからないけれども、あり得る話だと思っている。日本の企業は高物価にしろサービス残業にしろ市場以外での強制販売にしろ、とにかく個人の金をしぼりとって成長してきたのだから、バブルだって同じカラクリだろう。

 サラリーマンの闘いは続く、テクノマンとなるために。

(初出:ショートカット 60 号 1996 年 2 月 15 日発行)


解 説

 私はいったいどうすればよかったのだろうか。最初に述べてしまうが、この答えを私はいまだ持っていない。

 斡旋販売はいけないと考える点では、昔も今も変わらない。では斡旋販売に加わらなければよいではないかという事になるが、ことはそんなに簡単だろうか。

 このサラテクで述べているような論理を盾に、なにがなんでも斡旋販売に抵抗してそれに加わらないという事は可能だろう。周りの人間も斡旋販売の不条理さは重々承知しているようだったからだ。しかしそのようにして自分だけ斡旋販売の制度から降りるのは、単なるわがままという誹りを免れないように思われる。なぜなら私ひとりが降りたとしても斡旋販売という制度は残り続けるだろうし、皆は苦しみ続けるからだ。私が会社社会で生き続ける限り、周りの人間を無視して自分ひとりだけ不条理から逃げるのは、私の心情として首肯しかねるのだ。

 それでは斡旋販売という制度と闘えばよいではないか、という事になるだろう。確かにそうだ。しかしこれは日本社会全体に関わることである。そんなものに対して私ひとりでどうやって闘えというのか。

 これはボランティア一般の問題と同型かもしれない。つまり南の貧しい国々に救援物を送ったり、実際現地に行って救援活動をしたりしたとしても、それだけでは北の国々による南の国々の搾取という構造には何の根本的変化はなく、かえってこの搾取の構造を強化してしまう事になるという問題。これに対しては、そんなことを言われても実際目の前で苦しんでいる人間を放っておく事はできない、という意見が持ち出されるだろうし、その気持ちもよく分かる。とはいえ、私の正直な気持ちをいえば、そのような心情を素直に肯定する事はできない。わたしの気持ちが痛む(かわいそうだ、みていられない、など)からといって、結果として問題解決に反するようなボランティア活動にせいを出すというのは、私の気持ちが痛む(不条理だ、正義に反することをしている、など)からといって、一方的に斡旋販売を降りるのと同様に、個人のわがままに思えてしまうのだ。

 それでは私はどうすれば良かったのか。どうしたのか。結局、会社を辞めてしまったのだ。これを「逃避」と呼ぶことは十分に可能だろう。今だに斡旋販売に苦しむ人々は存在し続けているからだ。しかし、現在私がオパールというカフェをやりながら考えている事は少し違う。誤解を恐れずに簡単に述べれば、それは現在私の生きている社会は以前私が生きていた会社社会とは違った社会であり、ここにはここの問題があって私はそれと格闘している、という事だ。いや、会社社会とここの社会は繋がっている、全ては連関しているのだ、勝手に社会を区切ることなんて出来ない、という反論をする人もいるだろう。しかし、問題をあまりに拡げすぎることは、問題をあまりに小さくしすぎる(実存的に考えすぎる)のと同様、有効ではないだろう。

 会社社会と今の私が生きている社会とは、繋がる所はあるものの、やはり違った社会である、というのが私の実感である。人は世界全体を考えることなどできない。人はそれぞれの生きている社会でそれぞれの問題と格闘するしかないのではないか。そしてその成果を他の社会に向けて発っしていくのだ。とはいうものの、自分の生きている社会というのが分からなければ仕方がない。現在はこの社会というのが非常に不透明になってきて、結果としてなんでもかんでも自分の問題か、世界の問題かという不毛な二項対立、あるいは自分の問題=世界の問題という不毛な考えに陥っている人が多いのも事実だろう。

 自分はこう思うから、あるいは、自分が気にならないからいいではないか! という極度に実存的な態度と、世界はこうなってるからこうなのだ! という極度に抽象的な態度の中間をいく、社会的な態度としてのサラテク。

 サラテク終了後の今でも、このテーマだけは引き受けていきたいと思う。

小川顕太郎


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