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サラテク 11
解説

Salaryman technocut

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サ ラ リ ー マ ン テ ク ノ カ ッ ト 11

 1996 年 3 月 31 日をもって会社を辞める事となった。今これを書きつつある現在の月日は正に 1996 年の 3 月 31 日なのでこれは私がサラリーマンとして書く最後の原稿という事になる。今回は短かった私のサラリーマンライフを振り返ってみようと思う。

 私が会社に入社したのは 3 年前の 1993 年 4 月 1 日で、会社名はカゴメ株式会社、あのケチャップやトマトジュースで有名な会社である。何故カゴメに入ろうと思ったのかというのはわりと単純な話で、会社説明会と銘打たれた面接試験に“私服可”といわれたのを鵜呑みにしてスキンヘッズに皮ジャン、ピタピタパンツに編み上げのブーツというどこからどうみても Oi の格好で臨んだ馬鹿な私を採ってくれたからで、こういうシャレの分かる会社なら居心地が比較的よさそうだと思ったからだ。

 さて、晴れてカゴメに入社した私は 2 ヶ月間の研修を終えた後、大阪支店の営業十課というところに配属された。営業十課というのは百貨店を担当する課であり、カゴメという量販店との結びつきが強く百貨店には最近になってからかかわるようになった会社で百貨店を担当するというのは、会社内でマイノリティになるということである。つまり支店長以下他の人々には十課の仕事内容が具体的には分からないので、理解が得られず苦しむ事もある反面、好き勝手ができるというわけである。また百貨店というのは量販店や酒屋と違って大都市にあるので、仕事にかこつけて本屋やレコード屋をまわるという事もできた。それに加えて私は始発駅から電車にのって通勤するので、3 年間座って寝て通ったのでついに満員電車で苦しむということはなかった。以上のような事情が 3 年間もの長い期間(?)私を会社に繋ぎ止めていたものと思われる。

 それではその 3 年間におよぶサラリーマンライフはどのようなものであったのか、というと傍目にもかなり波乱ぶくみの年月であったように思う。百貨店との商売はどうしても中元と歳暮のギフトが中心となるのだが、ギフトというのは非常に売れ行きが天候に左右されやすく、94 年の猛暑 95 年の冷夏と毎年のように振り回され、また百貨店自身が近年その存亡を問われるなどの厳しい状況に対処すべく色々と体制を変えたりしてくるので、そちらの方にも振り回されるのだが、いかんせんカゴメという会社は先程述べたような理由で百貨店に対する体制が整っておらず、振り回されるたびに会社内でおこる摩擦も大きかった。さらに特筆すべき事は、十課には課員が二人しかいないのだが、私以外のもうひとりの課員が、やめたりやむを得ない理由で転勤したりして毎年のように変わった事だ。このような事情は会社内でもかなりの同情を集めていたらしく、最初はこれらの事情が原因で私が会社をやめる事にしたと思った人も多かったようだ。しかしそんな事情は私にとってどうでもいい些事にすぎないのだ。私が耐えられない程の違和感を感じたのはこれまでサラテクでずうっと取り上げてきたもっと根本的な事柄に対してなのだが、ここではその話はいったんおいて、辞めていく過程に話をうつそう。

 辞めるにあたって私はとくに将来の展望だとかやりたい事だとかがあったわけではない。私は熟れたざくろが裂けるように会社を辞めたのだ。とは云うもののそんな理屈がそう簡単に通るわけがない。私には辞めるという事をキチンと納得させなければならない人々が 3 種類いた。ひとつは会社の上司であり、あとのふたつは私の両親と妻の両親である。これらの人々にはざくろ以外のなにかそれらしい理由を与えなければいけない。というわけで考えたのが大学に行きなおすという理由だ。これはなかなかうまい理由だ。とりあえず 1 年間は受験勉強中ということで何もしていなくてもやいのやいの言われないし、すでに学生時代から隔たること 3 年しかもアルバイトをしながらの勉強じゃあ簡単には試験にとおらないよねという事で 2 〜 3 年は持つだろう。その後の事は知らない。会社だって 3 年でやめたのだ、3 年後にどうなってるかなんて考えるだけ無駄というものだ。それに 3 年後は 1999 年じゃないか、どうにかなんとかなるだろう。どうにか なるだろ わたしはサンダルを履いて わたしは飯屋のまえで わたしは雲を眺めてた いつまでも いつまでも。町田康をくちずさみながら事に臨んだ私は自分が間違っていなかった事を確認した。

 私の掲げた理由は、会社でも私や妻の両親の所でもほとんどなんの摩擦を起こす事なく受け入れられ、あまつさえ歓迎されまでしたのだ。私の両親などは自分達の息子が自らの進むべき道をみつけ、果敢にそれにたちむかっていっているといくぶん得意げだ。おいおい大丈夫か。辞めると告げた会社の同僚や得意先の人々の反応もおおむね好評で、特に若い人達の口からは一様に「うらやましい」という言葉が漏れた。この言葉は自分達が現在苦しんでいる仕事から私が抜け出していくという事に対して発せられたのはもちろんだがそれとは別に“自分のやりたい事をみつけた人間”に対する憧憬も多分に含まれている。

 みんな自分が本当に何がしたいのかわからないと言う。その事に対する苛立ちや苦しみを語ってくれた者もいる。何か本当にやりたい事がみつかれば自分だってこんなサラリーマン生活から抜け出せる、そうあからさまに内心を吐露した者もいた。しかし私だって別に本当に自分のやりたい事をみつけて会社をやめていくわけではないのだ。「大学にいって何を勉強したいのか」と問われて「哲学、それも分析哲学という英米系の哲学をやりたい。ドイツの観念論やフランスのポスト構造主義など大陸系の哲学が幅をきかし英米系の功利主義哲学が蔑視されている日本の哲学界の情勢は、あいまいで非政治的な日本の社会環境と呼応しており、3 年間のサラリーマン生活で日本社会の非論理性にうんざりした私は論理学というものを勉強して、少しでもこの日本を論理的な考え方のとおる暮らしやすいところにしたい。」などとショートカット読者が聞いたら悶絶しそうな事を言っているくらいなのだ。本当に自分のやりたい事などというものが万人にあるものなのか、そもそも本当に自分のやりたいことなどというものが存在するのか、そんなこと私にはわからないが、ひとつ確実なことはそんなものなくたって会社をやめれるという事だ。私にはっきりしているのは“自分が何をしたくないか”ということで、“いかに生きるか”という事だけが私の関心事だ。これだけで会社をやめるには十分だ。私の去ってきたサラリーマン社会の住人に次の言葉を送ろう。「勝手に生きろ!」

(初出:ショートカット 64 号 1996 年 4 月 15 日発行)


解 説

 とうとう辞めてしまったか。などと書くとまるで他人事のようだが、今から振り返れば他人事としか思えない。自分がサラリーマンをしていたのも夢のようだが、辞めるにあたってこのような事を考えていたのかと、新鮮な気持ちだ。やはり記録というのは残しておくものだと痛感。

 とはいえここで書き記した考え方と感情は、現在の自分と完全に地続きであるのも確かだ。故に特につけ加えることはない。が、それでも敢えて説明を加える必要があるところといえば、私の哲学を勉強したい理由が何故ショートカット読者を悶絶させるのか、という部分だろう。これは私のあげた理由が、ショートカット主筆のサクライさんの持論のコピーみたいなものだからである。つまり当時のショートカット読者には、私が会社を辞めるために「嘘も方便」で、「哲学の勉強」という理由を持ち出したのが一目瞭然という仕掛けだったわけだ。

 しかし私が「方便」のためだけに全くの「嘘」をついたのか、と言われればそうでもない。むしろ「論理性」こそが新しい「倫理」のために必要である、というサクライさんの姿勢に共感するところがあったればこそ、私はショートカットにサラテクを書いたのだ。私は会社を辞めてから 1 年ほどは何もせずにブラブラしていたのだが、その間に集中的に分析哲学の本を読むことになる。

 人は会社を辞めるなどの人生の転機にあたっては、これからどうしていくのか、ということを厳しく問われる。それに対して、「人生に決まったシナリオはない」というのが私の今も変わらぬ持論なのだけれど、この持論が危険な側面を持っていることも承知しているつもりだ。つまり「決まったシナリオがない」という事は「なんでもやろうと思えば出来る」という誤った幻想を与えがちで、結果として現在の闘いから逃げ続ける言い訳を提供し続ける事になるからだ。しかし人は「できることしかできない」というのも残酷な事実なのである。だから「これからどうしていくのか」という問いは、鬱陶しいがそうそう無視してよいものではないだろう。結局、人はその場その場で自分だけの孤独な闘いを続けていくしかないのである。町田康の「どうにかなる」は、諦めの歌ではなく、孤独な闘いを続ける人間の「闘いの歌」なのである。

 サラテクを連載していて一番多かった反応は、「もう絶対サラリーマンになんかなるまいと思いました」といったものだが、別に私はサラリーマンライフを否定したわけではない。最後に書き付けた「勝手に生きろ!」というのも、人は勝手に孤独に自らの闘いを続けるしかないという意味である。このサラテクは私の闘いの記録なのだ。つまりサラリーマンを辞めた人間の闘いの記録ということであり、当然の帰結としてサラリーマンライフのマイナス面が全面に出るのは仕方ないことだったのだ。

 人にはそれぞれの闘いがあり、それぞれのサラテクがある。私は他の人のサラテクが読んでみたい。

小川顕太郎


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