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サラテク 6
解説

Salaryman technocut

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サ ラ リ ー マ ン テ ク ノ カ ッ ト 6

 私が入社したのはバブル崩壊直後の事とて企業が学生に対して「やる気のない者は別にこなくてよい、今年はそんなに人間はいらない」というような会社説明会を経たわけだが、その説明会において「うちはノルマがない」とのたまった会社に、その言葉を信じたわけではないが、結果としてはいってしまった。明確なノルマというようなものがなくても会社はノルマに似たものを社員に課す事はいとも簡単であり社員は自分の責任の名においてそのノルマに似たものを、サービス残業をこなしていくわけだが果たして社員はそれに対して如何ように戦い得るのか。自分の持つ主張を会社にぶつけ会社側を納得させていくのがいちばんの正攻法であろうが、心が弱く面倒なことはごめんだよという人間にとっては逃げる――つまり会社を休むというのが最もとりやすい手であろう。現に私も不条理なサービス残業を強いられるようであれば休んでやれと心ひそかに固く決意しながら入社したものである。しかしこの戦略をすでに実行している人間が会社にはすでにいたのだ。彼の名を仮に B としておこう。

 私の所属する課は営業十課といって主に百貨店を担当する課であり課長一人に課員二人という小さな課であるわけだが私の先輩にあたる一人が会社をやめたため 94 年 6 月の人事異動で B が十課に配属されたわけである。6 月 7 月といえば食品メーカーの百貨店担当で飲料ギフトを扱っているものにとっては中元戦線という一年でいちばん忙しい時期にあたり、この時期ダケは私もサービス残業がうんたらかんたらとかいってられない状況になるのだがそれに加えて昨年は例年にない猛暑で各地に水不足が発生する有様。当然私が扱っている飲料ギフトも品切れを起こしたのだけれども百貨店がそんなこと承知するわけがない。百貨店にとって信用は命だそうで、そりゃそうかもしれないがそれならば在庫があるかどうかも確かめずに注文だけとるなよと言いたいところだが品物がなければ烈火のごとく怒り、売り残せば平気な顔をして大量に返品をするのが百貨店というところなのである。確か山本夏彦が、百貨店が看板にしている“信用”なるものは問屋やメーカーが作っているもので百貨店自身がつくりあげているものではないからにせものであるという内容の文章を書いていたがまったくその通りと頷ける。世間では百貨店の滅亡ということがしきりに言われているけれどもそれも仕方ないかと思えたりする横柄さが百貨店には確かにある。

 まあそれはよいとしてとにかく中元の商品は絶対に切らしてはイケナイのである。サントリーやキリンのような一流会社になればうまい具合に品切れさせるらしいが私の勤めている一部上場はしているものの弱小という中途半端な会社はとにかく品切れさせない事が肝心である。朝出社するとすでに電話が 5 、6 本はいっている。そして一度受話器を取り上げたら昼過ぎまでそれを置くことができない。その電話のほとんどが全て苦情であり泣きつかれたり罵倒されたり脅迫されたりの連続で精神的に疲労困憊してしまうが、午後になれば工場にてできあがってきた商品をとりあえずの冷やしだまとして配達してまわるという肉体を酷使する仕事に従事することになる。スーツを汗と汚れでボロボロにして夜遅く会社に帰ってくると山積みになった内勤業務が無表情に私を迎える。このような無茶苦茶な毎日に対して B は果敢に戦いを挑んだ。確か昨晩は課長と私と B の三人、明日も頑張ろうといって笑顔で別れたはずなのに次の日の朝 B の奥さんからの電話で B が倒れたという報が届けられたのである。結果として B の分まで仕事をしなければならなくなった私はほとんど労働マシーンと化してこの地獄のような日々を駆けぬけたわけであるが、結局 B はそれから中元が終わるまで二週間以上休み続け会社のボーリング大会の日に出社してきて病み上がりとは思えない健闘ぶりで堂々の二位に輝いた。(私は出席していないのでこれは伝聞)

 この B の戦いぶりに怒りを隠せない課長に対して私は実のところあまり腹は立っていなく一種のおかしみさえ感じていた。ところが B はこの後も仕事が少しいそがしくなると本当によく休むのだ。それに課長が休んだり出張でいない日は必ずといっていいほど“直行”する。“直行”とは自宅から得意先に朝直接行くことだが B の行っているはずの得意先から緊急の用事の電話を受け取って何度か B の尻ぬぐいをしたことのある私は B の“直行”の正体は分かっていた。こうなると弱肉強食の社会ダーウィニズムをそのまま生きているかのような日本の会社に批判的で、身体の弱い人間は仕事に潰される前に例え仕事に支障をきたすようであっても仕事を休んで自分を守るべきであり会社もそういう人間を許容しなければならないと日頃(心の中で)唱えている私もなんだか腹がたつようになってきて、一度など電話ごしに弱々しい声で「ごめん、からだがうごかなくてさ」と囁かれた時には怒鳴りそうになるのをグッとこらえた。しかし何故腹がたつのだろうか。

 先程も述べたように私は身体の弱い者が自分を守るために仕事から逃げるのを卑怯として非難する課長に与する気はないつもりなのだが、自分の怒りを分析してみるとどうも B の事を卑怯だと憤っているふしがあるようだ。例えば B がもっと堂々と会社に対して舌を出しているような人間ならば私は腹がたたなかったような気がする。とすれば私は弱い人間が弱者の論理――それは卑怯なやり方が基調になる――に従って生きていく様が嫌なのであろうか。太宰治や大槻ケンジが嫌いで三島由紀夫や小沢健二の好きな私のことだからそれは充分あり得る事だ。そういえば B の同期は B も含めて異常に厳しくされた年度らしく、B 以外のほとんどの人間は会社をやめてしまったそうで要するに B は弱者の論理で生きぬいてきたという事だ。それにしても自分が弱い人間なのに、弱者の論理で戦っている人間を醜いと感じるとは、はは何とゴーマン何とダンディなんざんしょ私は。

 ちなみに B は今年の人事異動で一年という短い十課の在席を終え名古屋にとばされてしまった。大阪で結婚してまだやっと一年が過ぎたところだったと思う。実をいうと私の勤めている会社はバブル崩壊後も新商品のヒットによりずっと好調できていたのだが今年に入ってとうとう息切れして赤字をだしてしまった。こうなると企業はいきなり社員に対して厳しくなるのだが果たして B は戦い抜くことが出来るであろうか、いやひとごとではない、私は如何にして戦いえるのであろうか。

(初出:ショートカット 54 号 1995 年 11 月 15 日発行)


解 説

 今回は中断された思考の続きをやろうと思う。なぜ私は、弱者が弱者の論理に則って生き延びる事に賛成のはずなのに、B に腹が立つのか? まず、強者/弱者の区別から考え直そう。何をもって強者といい弱者というのか。

 とりあえず、身体の強弱はおく。なぜなら私は身体は別に弱くはないが、自らの事を弱者と考えていたからだ。それでは何故私は自らの事を弱者と考えていたのかというと、自分の主張を強く押し出す事が出来なかったから、いやそもそも強く押し出すほどの確固とした主張を持たなかったからだ。結果として不本意ながらも周りに押し流されることになり、自分は弱い人間だという感を強くすることになる。私のイメージする弱者の弱者の論理に則った生き残り戦略とは、強者が周りからの圧力に抗して自らを強く押し立てるのに対して、周りからの押し流そうとする圧力の波に流されつつも上手くそれにのって、サーフィンをするように快感とともに乗り切るというものだ。しかし、当時の私は流されるばっかりで、ともすると溺れそうになったりもし、とてもじゃないが快感を感じることなどできなかった。要するにサーフィンが下手だったのだ。

 では B はどうか。彼はうまく波乗りができていただろうか。どうも違う。B のイメージは波に乗るというよりは、周りの流れに対してじっとうずくまりガンとして抵抗している感じなのだ。「私は弱い」という一点にしがみついて。実は問題の焦点はここにあるのではないか。つまり「私は弱い」というのは十分すぎるくらい「強い」主張なのだ。これは圧力団体の存在を考えれば分かりやすいだろう。強者が弱者のフリをして二重に利益を得ようとする。やはりこういうのは醜い行為ではないだろうか。

 しかし、ここでもう一度問題を考え直してみよう。私は強い主張を持った人間を強者とし、そうではない人間を弱者としたが、これは正しいだろうか。そもそも強者は強者の論理に則って、弱者は弱者の論理に則って、やり方こそ違えそれぞれが同様に生き延びれるのなら、そこに優劣はないだろうし、かえって「強い主張」なしでやっていける弱者の方が「強い」人間なのではないだろうか。つまり、「強者」とは「強い主張」の支えがなければやっていけない「弱い」人間かもしれないのだ。とはいうものの、世間一般ではやはり「強い主張」を持った人間を強者とみなすであろう。ということは、これは弱者が強者のフリをして二重に利益を得ようとしている事になる。これもまたみっともない行為ではないだろうか。

 私に言えることは、このようなペテンにひっかからないよう気をつけなければ駄目だということだ。強い/弱いの区別など、闘う土俵を変えれば簡単に変わるものなのだ。とはいえ、我々は自由に土俵を選ぶ事は出来ない、ということは忘れてはならないし難しい点ではあるのだが。

 その後、B はどうなったのか。私が会社を辞める時に風の便りに名古屋でも仕事を休みはじめているという事は聞いていた。それから約 2 年。私が開店したオパールにかつての同僚が訪ねてきてくれた折に、それとなく B の事を聞いてみた。すると…なんと B は 2 年間も会社を休み続けているというではないか! そのような事が許されるのか。さすがに給料はもう出ていないらしいが、それも定かではない。その時に私はある事を突然思いだした。私の勤めていた会社は、打ち続く不況で日本中の会社にリストラの嵐が吹き荒れている時に、わが社は決してリストラをしない、と宣言し、温情のある会社と評判になったことがあったのだ。その結果が B の 2 年間の休みだ。しかし、2 年間も働かずにいるということは、働きすぎで身体を壊したという理由で、多少のお金は貰っているのかもしれない。まったくとんでもない喜劇だ。

 現在オパールはとてもじゃないが経営が安定せず、正直いって明日をもしれぬ身だ。しかし人間というのは本来そういうものではないか。はっきりいうが、私は会社勤めをしていた頃より今のほうがずっと快適だ。絶え間なく襲ってくる難問も、気分が落ち込むこともあるが、大体うまくかわせていると思う。私はいくらかはサーフィンが上達したのだろう。

小川顕太郎


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