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サラテク 2
解説

Salaryman technocut

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サ ラ リ ー マ ン テ ク ノ カ ッ ト 2

 私が、というより私達夫婦が MODS であると気付いたのはごく最近の事である。

 考えてみれば妻は高校生の頃から THE TORCH SOCIETY のメンバーだったし、現在はコレクトロン会員。私はといえば毎日会社に出勤する姿は三つ釦に 20 センチ以上のサイドベンツの細身のスーツ、髪型は初期バーズのロジャー(ジム)・マッギン風。音楽遍歴からいっても中学生でスタカン、高校生でスミス、大学生でフリッパーズとまさに正統派モッズスタイル。新婚旅行でロンドンに行ったおりには、ジョージ快楽王の建てたシノワズリーの殿堂ロイヤルパビリオンを観にブライトンにいくと「さらば青春の光」にモッズ役で出ていたタクシー運転手に出会い、町中の映画撮影現場を案内してもらったりした。

 このように自分が MOD であると気付いたからには MOD について考えてみなければならない。さて MOD とはなにか。

 一般的解釈では 50 年代後半にモダーンジャズを聴いて黒人の真似をしたあの集団、60 年代にはいってからはフーやスモールフェイセスを聴いてロッカーズと喧嘩したイタリア製スクーターに乗ったあの集団、そして 60 年代後半からヒッピー、スキンヘッズ、アングラへと拡散していったあの集団を指すのだろう。無論それはそうだが私が自分にとって MOD とはと問う時そのナルシズム、反逆精神、俗衆への侮蔑、規則への偏愛などからダンディズムの現代的形態としてとらえている。19 世紀初頭にボー・ブランメルによってイギリスで創始されたとされ、中頃にはフランスで大流行し、世紀末になってまたまたイギリスを闊歩したあれである。故にモッズの女神サンディー・ショウと世紀末ダンディーの雄オスカー・ワイルドを同等に崇めるモリッシーは私にとっての最重要アーティストである。

 このようにダンディーの系譜に位置づけられた MOD として突如自分を自覚したということは、無意識の内ではずっとダンディーで MOD だったということであり、それは私が自分のうまれおちてしまった世の中になじめない者として、当時台頭しつつあった俗物ブルジョアに対してダンディーがやったように、また戦後うまれつつあった“若者”という新しい種族の代表としてモッズが旧世界にたいしてやったように、世間にたいする事をしらずしらずのうちに選択していたという事である。もちろん世界にたいして違和感を感じる者の生き方は他にいくらでもある。例えばダンディーにたいする“奇人”という生き方。ロジェ・ケンプによれば奇人とは騒々しさ、下劣さ、規則・常識への挑発、激烈な自己主張などを特徴とし、自己抑制・禁欲を旨とするダンディーとは対極の存在である。奇人は縛られることを嫌い自由に生きようとする。ここで唐突ではあるがテクノである。(これはサラリーマン・テクノカットだからね)世に氾濫するテクノについて書かれたものをみると“自由”という言葉がとびかっている。いわく「テクノには決まった服装がないから自由だ」「テクノは数台のマシーンさえあれば一人でつくれるので人間関係のしがらみや楽器による制約がある従来のロック・ポップスより自由だ」「テクノは楽器の練習をしなくてよいので(イマジネーションをそのまま曲にできる)自由だ」など。これらの文脈では“自由”は非常に良い意味で使われているが、冗談ではない。“自由”に至上価値をおくのは近代的ブルジョアの考えであって、そういうブルジョアの俗物性に対する嫌悪でなりたっているダンディーは“自由”なんぞには鼻もひっかけない。そういえばテクノは誰でも参加できる、スターシステムがない、っていう意見もよくみるけれど、もしかしてこれは“平等”幻想? クスリきめて踊りまくるレイブもいってみれば皆で“自由と平等”の幻想に浸ることであろう。別にレイブそのものが悪いとはいわないが、これだけ“自由と平等”幻想の匂いが濃厚なテクノ論には正直吐き気をおぼえる。おお、サラリーマン・テクノカット 2 回目にしてすでにテクノ否定か。

 いやいやそんなことはない。世にはびこる下らないテクノ論をばっさり切り捨てて一からテクノを考えなおす。さてテクノとは。

(初出:ショートカット 48 号 1995 年 8 月 15 日発行)


解 説

 まず事実関係の誤りから訂正しておきたい。モッズというのは 64、5 年頃にはほぼ消滅しており、従ってフーやスモールフェイセズなどは聴いていない。彼等がモッズ出身、あるいはモッズに影響を受けたグループだったのだ。映画「さらば青春の光」でフーのマイジェネレーションを聴いてモッズ達が踊り狂うシーンがあったので、勘違いしてしまった。あのシーンはあの映画なりのジョークだったのだ。

 それからこれは間違いではないのだが、スミスやフリッパーズを聴くことを「正統派モッズスタイル」と称している部分は、多少説明が要るかもしれない。もちろんスミスやフリッパーズは一般的にモッズバンドとは思われていない。では何故このように書いたのか。当時の私は自称モッズの連中といくらか交流があり、彼等のイベントにも顔を出していたのだが、彼等のただ単にモッズ的記号をなぞっただけの在り方――紋切型のファッションセンスや R & B や初期ソウルしか聴かない音楽的態度、などに強い違和感を覚えていた。モッドであることと、モッド的記号をなぞることは全く別物であるはずだ。私の考えるモッドのクールネスからほど遠い彼等のオタッキーなコスプレ感覚を軽く揶揄するために、わざと「正統派」などと書いてみたのだ。

 「自由」という言葉にも説明がいるかもしれない。私が考えるに、そもそも「自由」という言葉=概念自体に無前提に価値が含まれているわけではない。使い方次第、文脈次第で良い意味になりもすれば悪い意味になりもする。(ウイリアム・クラインの「ミスターフリーダム」という映画を思い出そう)故に私は無前提に「自由」を良い意味で使っている文章は一切信用しない事にしている。実際サブカルチャー関係の文章にはそのテが多いのだ。既成の秩序に反抗するという意味合いを色濃く持ったサブカルチャー、カウンターカルチャーの性格上どうしてもそうなるのだろうが。

 はっきりいって絶対的・純粋な自由などあるはずもなく、我々人間は皆、さまざまな規制=不自由のなかで生きている。それは制度や法律、慣習からはじまり、言葉、教養、能力までに至る。人間は自分の能力以上のことなど出来ないのであって、自由といってもその範囲のなかでのことでしかない。この事に無自覚な輩は往々にして、自らの持つ規制=教養不足や能力不足などには手をつけようとせず、外部にだけ変化を求める。「自由を我らに!」とか言って。そういうのは単なる「わがまま」であり「放縦」である。私とて別に「不自由」が好きなわけではない。しかし自らの現時点での限界を常に意識し、自己を厳しく律して生きるというのに魅かれる。これこそが私の考えるモッド=ダンディーでありクールネスなのだ。

 全体的に文章が生硬で読み返すと恥ずかしいかぎりだ。しかしこれが当時の私の限界だったのだ。鼻で笑ってくれ。

小川顕太郎


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