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 Diary 2005年2月16日(Wed.)

グランド・フィナーレ

 阿部和重の芥川賞受賞作『グランド・フィナーレ』を読む。芥川賞なんて屁でもないが、さすが阿部和重が獲つたと聞くと、お! と反応してしまふ。彼は、大江健三郎、中上健次、と続く日本文学の正統、のひとつを継ぎつつある、希有の存在である事には間違ひないからだ(ま、実力的にはまだ未知数、といふ想ひは消えないけれど)。…んで、『グランド・フィナーレ』を読んだ感想だが、一言で言ふと「ものたりない」といふのが正直な所であつた。

 この話は、「神町サーガ」のひとつである。阿部和重は、オタクやロリコン、ストーカー、など、基本的に他人と交流のできない閉じた精神構造の人間を描いてきた。これは現代の病理のひとつなので、この観点から阿部和重は今の時代と格闘し続けてきた(文学を書いてきた)、と言へるだらう。初期の作品では、自らをさういつた人間として提示し、作品自体を閉じた回路の中でメタメタにする事によつて、批評性を獲得してゐたのだが、だんだんと視点が一人称的なものから三人称的なものへと移行し、さういつた人々の織りなす奇妙な世界(むろんそれが現代の陰画である訳だが)そのものを描くやうになつていつた。これは個人といふ隘路を抜け出し、世界へ、つまり普遍へと向かう、文学的営為であつたと言へるだらう。この道程は『シンセミア』で、一応ひとつの頂点を極めたことになる。

 で、今回の作品だが、閉じた精神構造そのものを解体しやう、自ら提示した世界(阿部和重流現代の陰画)を超克しやうとしてゐる。これは現代の腑分けを徹底してこれまでの作品で行つてきた著者が、さらに現代を超える試みに着手した、といつた点で、あまりに正統的な行き方とはいへ、やはり感動的だし、その志は高く評価されてしかるべきであると思ふ。思ふのだが、私には、その試みが必ずしも成功してゐるとは思へないのだ。自らの醜さに気づいた主人公が、その贖罪を決意する、といつた所でこの作品は終はつてゐるのだが、これでは今までと同じであると思ふ。決意など、個人の中の問題でしかない。その試みがどういふ結果をもたらすか、を描かなければならないのではないか。そして、その事によつて作品を変容させなければならない。ここにはやはり、まだ、「他者の声」がない。阿部和重は、いま、「他者の声」を作品に導入する時期に来てゐると思ふのだが…。

 とまァ、勝手な事を書き連ねてきたが、これは私流の阿部和重の読み方であつて、他の人はどう読んでゐるのか、分からない。結論として、私にはこの『グランド・フィナーレ』は物足りなかつた、が、志は高く買へるので、次作に凄く期待、といつた所です。最後にマツヤマさん、阿部和重の(ほぼ)全作品を貸していただき、ありがたうございましたー。次作も貸して下さい。

小川顕太郎 Original: 2005-Feb-16;
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