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 Diary 2004・4月15日(THU.)

25時

公式サイト: http://25thhour.jp/

 みなみ会館に『25 時』(スパイク・リー監督)を観に行く。

 麻薬の密売人であるモンティ(エドワード・ノートン)が逮捕・起訴され有罪判決を受け、明日は刑務所に入らなければならない、といふ一日を描く。アメリカの刑務所は地獄のやうな所で、入所はモンティのやうな人間にとつてはほとんど死を意味する、らしい。優男で若い白人である彼は、まづ間違ひなく皆の慰みものにされるさうで、身体を弄ばれるのは勿論のこと、歯を全部叩き折られてフェラティオマシーンとされてしまうさうなのだ! 無茶苦茶やな、とは思ふが、まだ、その地獄は始まつてゐない。地獄まで、まだ 24 時間ある。かと言つて、ハスラーとしてブイブイ言はせてゐた時のやうな一日を送ることも出来ない。そのどうしようもない、宙ぶらりんな、中間としての一日が描かれるのだが、これがまた素晴らしかつたのだ。

 悔恨、疑惑、憎悪、絶望、倦怠、憐憫、感傷、など、「希望」以外のあらゆる感情がスクリーン上に張り、ほとんど官能的である。スパイク・リーお得意の平行移動撮影も、その中にしつくり収まつてゐる。随所で「911」に関する言及があるのからも分かるやうに、この宙ぶらりんな感覚は、「911」以後のニューヨーカーたちの心象に相即してゐるのだらう。決定的な事件により、それまでのイケイケのやり方・生き方は許されなくなつた。しかし、まだ「それ以後の生(地獄?)」は始まつてゐない。そんな空白のやうな、小春日和のやうな、犬でも散歩させるしかないやうな、時間。それでは、今のニューヨーカーたちには「希望」といふ感情はないのだらうか? …などと考へてしまう。さすがスパイク・リー、と納得させられる、鋭く政治的な映画である。

 実を言ふと、私はスパイク・リーの前作(?)の『テン・ミニッツ・オールダー』中の一編にはかなり批判的であつた。あの作品は、大統領選におけるブッシュ陣営の不正を、敵対するゴア陣営の人たちの証言をもとに暴いていく、といつた作品であつた。この作品が最悪なのは、まるでブッシュ側の不正がなくてゴアが勝つてゐれば、今のアメリカの悲劇(?)は避けられたのではないか、と言つてゐるやうにとれるところだ。これは最悪の政治主義で、ゴア側の(民主党の)プロパガンダ映画となんら変はるところがない。言ふまでもなく、ゴアが大統領になつてゐたとしても、アメリカの悲劇が避けられた保証はなく、さらに悪いことになつてゐた可能性だつてあるのだ。政治においては、常に現在から眼を逸らしてはならない。その事を、スパイク・リーはよく分かつてゐるはずなのに、なんでこんな作品を、といふのが、前作を観た私の感想であつた。スパイク・リーは、政治的に後退してゐるんぢやないか?

 今作を観るにあたつて、その点に関する不安は多少あつた。が、その不安は杞憂に終はつた。この映画のラストでは、見事なまでに宙吊り状態が維持されてゐる。ほとんど戯画的なまでに、もうひとつの生=田舎で質素に堅実に生きる、が長々と描かれた後に、傷だらけの現在のモンティの顔のアップに戻り、終はる。それは、決して現在から眼を逸らすことを許さない、といふこの映画の意志である。

 スパイク・リーはまだまだいける! と、私は喜んだのでした。

小川顕太郎 Original: 2004-Apr-17;