京都三条 カフェ・オパール Cafe Opal:Home

Home > diary > 02 > 0213
 Diary 2002・2月13日(WED.)

殺し屋1

 みなみ会館に『殺し屋 1』(三池崇史・監督)を観に行く。R 指定、残虐描写が満載でとにかく「痛い」映画、という前評判が先行していて、「痛い」のと「恐い」のはごめんだ、と考える私は、かなり行くのを躊躇していたのだけれど、ババさんの猛烈なお薦めがあったので、行くことにしたのであった。

 確かに「痛い」。しかし、ヴァイオレンス度でいえば、北野武の映画を越えるものではないし、どちらかといえばスプラッター度の方がずっと高い。思わず笑ってしまう場面もかなりある。とはいえ、やはり男が女性を殴る、バットでしばく、そのうえ血まみれになった彼女を陵辱する、という「暴力的」なシーンもあり、冒頭にそのシーンが流れたため、こういったシーンがダメなトモコは、終始下を向いて耳を塞いでいたようだ。RCS のイワサキくんによれば、途中で映画館を出ていくお客さんも何人かいたようで、それもむべなるかな、といった感じだ。

 しかし! 浅野忠信はやはりいい! 超ド級のマゾでありサドでもあるヤクザの幹部・垣原を演じているのだが、これが素晴らしい。垣原こそ、人生の真理・人間の真理を体得した人間である。その真理とは何か。それは、人間とは「劇的なるもの」(by 福田恒在)だという事だ。人間は、自分が劇的な状態にいる時に、生の充実を感じる生き物だ。これは「必然性」と言い換えてもいいのだが、自分がいまここにいてこうやっている事に必然性が感じられる時に、一番の快楽を得ることが出来るのだ。まるで自分が映画の主人公になった気分、というやつだ。

 人生というのは無意味である。これは多分、真実なのだ。しかし、そのような真実に耐えられる人間など、そうそういない。それは悟った人間のみが耐えられる事柄だ。だから人は、嘘・作り事だと薄々感づきながらも、人生に意味・必然性・劇(ドラマ)をもとめる。恋愛が常に人々の関心事であり続けるのは、それが手っ取り早く自分がドラマの主人公になれるものだからだ。

 垣原は、自分の特殊な欲望をよーく自覚している。それは徹底的に酷い目にあいたい、というマゾヒスティックなものだ。しかし、ただ酷い目にあうだけではダメなのだ。自分で自分を傷つけたり、相手に無抵抗にやられるだけでは、必然性がなく、白々しい。そこに必然性がなければならない。だから、殺し屋 1 の出現が、垣原にとっては嬉しくて仕方がなかったのだ。自分がそれまでやってきた様々な非道な事の結果として「1」のような殺し屋に狙われることになり、そいつがまた無茶苦茶強く・残虐なやつで、自分はそいつに精一杯抵抗するのだが、結局酷く無惨な殺され方をする…という予感故に、嬉しさに打ち震えたのだ。「こえーよ(恐いよ)」と言いながら。それに対して松尾スズキが「あれ、兄貴にも恐いものがあるんですか」と言うと、浅野=垣原は「こえーよ。俺、自分がこえーよ。期待がふくれ過ぎちゃってよおー」と嬉しそうに呟く。この浅野忠信は最高だ! そこには人生の真実が余すところ無く描かれている。

 だから、実を言うと私は、このテーマをもう少し深く掘り下げて欲しかった。予兆はあったのだ。垣原は何度か「必然性」という言葉を口にするし、主犯のじじい=塚本晋也は「おまえの必然性なんて嘘っぱちだよ。おれが全部あやつってんだよ、バーカ」と垣原に電話をする。背後で操っているもの(黒幕・陰謀史観)と、人生の虚構の意味、というのは、凄く興味深い・哲学的なテーマだと思う。これをもっと深く掘れば、この映画は傑作になり得たのに、と少し残念に思ったのでありました。

 なんにせよ、今年最大の話題・問題作のひとつである事には変わりはない。みんな映画館に走れ! って、実は今日までなのでした。あー、観ておいてよかった。

小川顕太郎 Original:2002-Feb-15;