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 Diary 2000・7月30日(SUN.)

性同一性障害

 ババさんが『ボーイズ・ドント・クライ』という映画を観てきていたので、「ああ、それってレズビアンの人がアメリカ南部のホワイトトラッシュ達に殺される映画ですよねえ」と言えば、「いえ、違います。レズビアンではなく、性同一性障害の人です」と訂正された。性同一性障害? ああ、確かそんな言葉ってあったなあ。

 私の理解で言えば、性同一性障害の人というのは、自分の現在の性は間違っている! と固く信じ込んでいる人の事だ。例えば、レズビアンの人というのは、女性の事が好きで且つ自分が女性である事に不満ではない。少なくとも、自分が生物学的に女性である事を一番に問題にする事はない。それに較べ、性同一性障害の人は生物学的な性に拘る。故に彼(女)等は性転換手術をする。その上で、まあ女性から男性に性転換をした人なら、普通は女性を愛する。でも中には女性から男性に性転換した上で男性を愛するという人もいるようなので、ここら辺がまた、いわゆるレズビアンやホモの人達と区別される所なのだろう。

 こういった基本認識を共有して、ババさんと色々喋ったのだけれど、二人ともどうも「性同一性障害」が分からない。ゲイは分かる。私は同性に性的魅力を感じた事はないけれど、同性が性的に好きというのは十分あり得る事だし、自然の事だと思う。動物界にも多く見られる現象だし、人間も動物である以上それはあって当たり前の事だろう。が、「性同一性障害」という事になれば、どうもそれは「間違っている」という感覚を消す事が出来ない。無論、間違っているからダメ、ということではない。間違ったって一向に構わないのだけれど、「間違っている」と感じるのは何故なのか。個人的に気になるのでちょっと考えてみた。

 世の中には、性転換ではなく人体改造をする人達がいる。羽根を背中につけたり、角を額につけたりする人達だ。私はこの人達の事は「間違っている」とは感じない。何故なら、彼(女)等は自分の憧れる容姿に自分の姿を改造しただけであって、その勇気に吃驚はするが、それはごく自然な欲求だと思う。多少、過剰ではあるが。が、もし彼(女)等が、「自分はもともと羽根が生えてたんだ、今の姿は間違っている、もとの正しい自分に戻るんだ!」主張していたら、やはり「そりゃちゃうやろ」と言いたくなると思う。つまり性同一性障害の人の場合も同じで、例えば彼(女)等が異性の容姿に憧れて性転換をするのであれば、別に変とも思わないが、「自分の今の性は間違っている、正しい性に戻るんだ!」と主張しているが故に、「それは違うのでは」と思ってしまうのだ。

 ア・プリオリに「正しい姿」「真の姿」なんてあり得ない、というのが私の基本信条である。とりあえずは「ありのまま」を肯定する事。そこから「憧れ」に向かって進みはじめる。ゲイの人達が分かる、というのも、彼(女)等が「異性を愛すべきだ」という観念に惑わされず、とりあえずはありのままの自分の欲望を肯定しているからだ。「欲望」も「憧れ」もゲイの人達とは共有していなくても、その姿勢に共感できる、という事だ。

 この『ボーイズ・ドント・クライ』という映画は、実話をもとにしているらしい。それにしてもアメリカのホワイトトラッシュ達のヘイトクライムというのは腹がたつ。こうやって私が日記を書いているこの瞬間にも、多くのゲイや有色人種やゴスの少年少女達が迫害されているのだ。ううん、むかつく。全くやりきれんよ。

小川顕太郎 Original:2000-Jul-1;