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 Diary 2000・12月13日(WED.)

八坂神社 大祓

噂の真相」を読んでいたら、重信房子の手記が載っていた。新聞などの報道では、重信房子は逮捕される時にオドオドしながら素直に従った、とか、「キャー助けて!」と叫んだ、等とされていたが、その手記によると全く違い、重信房子は「逮捕状を見せろ!」と叫び、それに対して警察側は「緊急逮捕に逮捕状はいらん!」と怒鳴り返して逮捕したそうだ。冷静な重信房子に対して、警察側はみな一様に興奮気味で、震えていたという。この手記の解説で、「噂の真相」は新聞などの報道のいい加減さを笑っていたが、別に重信房子の言う事が一方的に正しいとは限らないだろう。どうであったのかはよく分からない。

 それよりも気になるのは、重信房子はほとんど罪には問われないのではないか、という「噂の真相」の解説だ。私も日本赤軍の活動についてはよくは知らないのだけれど、今まで日本で「テロ、テロ」と言われてきた日本赤軍の行為が、厳密に裁けばテロでない可能性がある、というのだ。あの岡本公三等によるテルアビブのリッダ空港での乱射事件でさえ、PLO の指示に従った軍事行動の可能性がある、というのだ。そうなのか? そうなのか? そうなのか?

 誰か詳しく解説してくれないだろうか。

 ババさんと、『新・仁義なき戦い。』のどこがダメだったかを話す。『仁義なき戦い』では、主人公の菅原文太が「仁義」を体現していて、それが仁義のない連中との対立・衝突・摩擦を起こし、緊迫感があったが、『新・仁義なき戦い。』のトヨエツにはそもそも「仁義」がなく、対立が起こりようがない、ということ。

 それから少年時代の親友であったトヨエツと布袋の二人組。当然この二人の間に、愛憎入り交じった対立がなければドラマは緊張しないのだが、それがほとんど描けていない。「人情」のコリアン世界に生きる布袋と、「義理」のヤクザ世界に生きるトヨエツ、という設定場の対立が用意してあるにも関わらず、ほとんどいかされていない。

 つまり『仁義なき戦い』のあの迫力は、ただ単にアクションシーンの派手さから生まれるのではなく、様々な人々の間の対立・緊張が生み出したものだったのに、『新・仁義なき戦い。』ではその対立・緊張が稀薄である、という事。これがダメだった主原因ではないか、などなど。

 今日は、八坂神社の大祓用の人形に姓名と年齢を書き、息を 3 度吹きかけて身体を擦り、祈祷料 200 円と共に袋に入れ、町内会長さんの所に届ける。年の瀬、ですか。

小川顕太郎 Original:2000-Dec-15;