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Book Review 1月9日(TUE.)

新・憂国呆談
 神戸から長野へ

浅田彰 VS 田中康夫(小学館)

『憂国呆談』についてもレビューを書いたが、今回も書いちゃう。

 この本が前著と大きく違う点は、なんといっても田中康夫が長野県知事になり、その直後の二人の対談が、時系列的には巻末にあるべきなのに巻頭に置かれ、その事によって全体のトーンが決められている事だ。この『憂国呆談』の魅力は、無責任に好き勝手な事を二人が言いまくる、正に「呆談」という所にある。この無責任さ=現場感覚のなさ故に、面白いことも言っているが、同時に思わず眉を顰めるような事も言っている。それが、田中康夫が長野県知事という責任のある立場、今まで自分達がやいのやいのと言ってきた立場に自らなり、それを浅田彰が猛烈にヨイショする事によって、それまでの対談が、一気に違う相の下に見えてくるのだ。

 田中康夫は、市民運動などをやってきたとはいえ、この本や前著にみられる発言には、どうにも現場感覚の欠如したものが多い。だから、知事になんかなったりして大変だとは思うが、また強烈に応援したいのも事実だ。従来の「呆談」では思わず眉を顰めた現場感覚を欠いた発言も、今回の「呆談」ではどのようにそれを田中康夫が知事として引き受けるか、と考えることによって、味わい深く感じられる。とにかく、田中康夫の活躍が楽しみだ。

 前回に引き続き、浅田・田中両人の左翼体質に対する違和を表明しておきたい。彼等はやはり平和主義、というか日本に軍隊・核兵器はいらない、と考えているようだ。そしてちゃんとした軍隊や核兵器を持ちたがる人々の事を、「マッチョ主義」といって批判する。そういった人達は、一人前の男として認められたい、核大国と張り合いたい、と考えている恥ずかしい人達なのだそうだ。しかしそれはあまりにも一方的・皮相的な見方じゃないか?

 無論、マッチョ主義にも悪いところはある。が、よい所もある。実際のところ、責任ある立場にいて、継続的に物事を動かす・運営する人々というのは、マッチョな人が圧倒的に多いはずだ。というか、マッチョでなければ、やってられないはずなのだ。田中康夫も、長野県知事になって、その事を痛感するのではないだろうか。

 また、ビートたけしが「たけし軍団」を養うのはさびしがり屋だからで、一匹狼になれないのは哀しい、とか言っているが、これもどうか。田中康夫は「変な義侠心」とまで言っている。確かにたけしは寂しがり屋だろうし、なにかと問題もあるが、こういったマッチョな義侠心自体は歓迎すべきものだと私は思う。例えば浅田・田中両人ともに、これから資本主義が厳しくなっていき弱肉強食の度合いが強まるにつれ、セーフティーネットが必要だ、と主張しているが、こういったマッチョな義侠心こそ、望ましい「セーフティーネット」ではないのか。

 もちろん、こういったマッチョな義侠心は「プレ・モダン」であり、自身は「ポストモダン」の思想家で、遅れている日本にはまずモダンな段階を啓蒙すべきだと主張している浅田彰に言わせれば、「プレモダン」に逆行するのは問題外だ、ということにもなろうが、こういった進歩史観(?)を信じない私に言わせれば、やはりどんな時代であろうと義侠心は必要だ、ということになる。

 ところでモダン段階のセーフティーネットって何? やはりそれは福祉とかになるんじゃないのか。とすればそれは大きな政府・国家主義にいきつくわけで、前著での「不公正税制を正すためには、国民総背番号制も仕方がない」といった内容の浅田彰の発言とも結びつく。やっぱ左翼なんだなあ、浅田彰って。「一匹狼」「孤高の道」を礼賛して、集団主義的・封建的な人々を軽侮しておきながら、自分はしっかり国家公務員、といった所もまた、ね。

 とかまあ、またしても色々と批判をしてしまいましたが、面白いことには変わりがないので、お薦めです。最後に、私が個人的に大受けした箇所を引用しておきましょう。オパール的には最高です。

田中
「京都はフランスだからさ、それができるんだよ、人民戦線的に」
浅田
「そう。創価学会と戦うために横断的に団結する」

 おおー! 京都のパリ化反対!! ……って、やってたよね。

オガケン Original: 2001-Jan-09;

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