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サラテク 10
解説

Salaryman technocut

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サ ラ リ ー マ ン テ ク ノ カ ッ ト 10

 先日ひさしぶりに私と同年であり、某一流企業に勤めている従兄弟に会った。話は当然の事ながらサラリーマンライフの事になったのだが、予想されていたとはいえ彼はほぼ毎夜 22 時から 23 時頃まで会社に残ってサービス残業をしているとの事だった。な、なんという事だ、そんなものする必要はない、その事について上司と徹底的に戦うべきだ、といきまく私に対する彼の返答がなにか変であると思ってよくよく尋ねてみれば、なんと彼は自らの意志でサービス残業をしていたのであった。理由のひとつはよく聞くやつで、自らの能力不足により時間内に仕事が終わらないためサービス残業をするというもの。我々は出来高制で雇われているわけではないので時間内に仕事が終わろうが終わるまいが定時まで働けば帰る事ができるはずで、そこら辺を誤解すると、絶対に時間内に終われない量の仕事を押し付けてくる会社にいいようにタダ働きさせられてしまうばかりだと反論しようとした私は、次に従兄弟のあげた理由に接し絶句してしまった。彼は早く仕事ができるようになって上司を見返したいと言ったのだ。実をいうと彼は体育会系の人間だったのである。

 彼は高校の頃からアメリカンフットボールを始め、大学の時は全国優勝のメンバーだったという筋金入の体育会系で、大学 4 年間で練習のなかった日はあわせて 10 日もなかったという無茶苦茶な学生生活を送ってきている。彼のいたクラブはちっとも体育会系らしくなかったと彼はいうのだが、その理由というのが、先輩後輩の区別があまりなく皆がお互い対等のライバルとして競いあいながら勝利を目指し頑張っていたから、というのだから笑わせるではないか。そりゃ立派な体育会系や。

 現在行われているスポーツ教育および体育会系のクラブ制度というものが、19 世紀に正に帝国主義の要請としてはじめられた事を思えば、体育会系=帝国主義系といっても良いだろう。勝利=拡張を目指して個人が全体にその身を捧げるというのがその眼目である。そしてここにはこの連載でも何度かとりあげている社会ダーウィニズムが密接にからんできている。体育会系なんてまんま弱肉強食の世界だ。未だ帝国主義まるだしでひた走っている日本の会社が、大学で体育会系のクラブにいた人間を優先的にとりたがるのは理に適っている。彼らは少々無茶な量の仕事をおしつけたとしても自分達の能力不足として身をけずってでもそれをこなすだろうし、少々理不尽な扱いをしてもそれをバネにますます会社のために働いてくれるだろう。

 改めて体育会系の人間の恐ろしさが身にしみ、しばし呆然とする私であったが、さらに追い討ちをかける恐ろしい発言が後に控えていたのである。

 気が付けば宝くじかなにかの話になっており、こういう場合ありがちではあるが、一生働かなくてもよいぐらいのお金がはいってくればどうするかという話になったときに彼の発した言葉がそれで、なんと彼は思いっきり好きなように仕事をすると言ったのだ。理由は辞めさせられても平気と思えば上司に気を使わずに仕事ができるからというのだが、働かなくていいのなら働かなかったらいいではないか、それともそんなに今の仕事が面白いのか、学生時代のアメフトにとって変わるほど今の仕事が好きなのか、と問えばどうもこれがはっきりしない。考えるにこれも体育会系のひとつの特徴と思われる。つまり自分が今なにをしているのかという事をみようとしない、あるいは決してみる事ができない。この点において体育会系は受験勉強系とイコールで結ばれる。しばしば世間ではこの二つは対立して語られ、勉強ばかりしてないでスポーツをとか、勉強もできてスポーツも得意なんて凄い、とか言われたりするが、頭と体の違いこそあるものの、受験勉強もスポーツも決められたルール内での点とりゲームという点では同じであり、ゲームの存在を疑わずにそれに打ち込む受験勉強系と体育会系は同じなのである。私の従兄弟も体育会系であるが故に〈現在たまたま自分に与えられている仕事〉という枠組みそのものを疑うことができず、先述のような発言になったのではないだろうか。

 それではスポーツ=受験勉強に対立するものは何かといえばそれは遊び=学問であろう。ここでいう遊びとはゲームの事ではなく、例えば子供達が広場でかけまわっている事などを指す。はじめはかくれんぼをしていたはずなのに、いつのまにか鬼ごっこになっていたり、気がつけば探偵になっていたりと、その場の状況に応じてルールが変わる、これが遊びである。また、学問とは、たとえ最初は決められたテーマに沿って研究していたとしても様々な事が分かるにつれ、色々と興味が移っていったりして初めからは考えもつかなかったテーマに研究が発展していく、これが学問である。スポーツや受験勉強はがっしりとした枠があるので、やみくもにそれに打ち込めば打ち込むほど競争は熾烈になり、自らの身をすり減らす事になる。先程も述べた様に、私の従兄弟は学生時代は朝はやくから夜遅くまでほぼ毎日練習を重ねていた。そしてたまの息ぬきには皆と酒を飲んで騒いでいたようだが、あんたそれじゃまんま猛烈サラリーマンですがな。

 彼とは音楽の話もしたのだがその時にでたのが中学生の時に一緒に買いにいったビートルズのレコードの話。とにかくずうっとビートルズの話なのだ。いやもちろん私と共通する音楽の思い出がそれしかないという事情もあろうが、話を聞いていくとどうやら彼はそれ以降ほとんどレコードを買ってないようだし、音楽もまともに聴いていないようだ。従って彼のなかでは音楽とはすなわちビートルズなのである。別に音楽が万人にとって必要不可欠なものとは思わないが、このエピソードが遊びというものを全く知らないであろう彼という人間を象徴しているような気がして悲しい気分になった。

 そこで私は彼に言いたい。もっと遊べよ、と。ビートルズもいいがテクノも聴けよ、と。

〈付録〉帝国主義・社会ダーウィニズム・スポーツの関わりについては富山太佳夫の諸著作を参照のこと。
  『空から女が降ってくる』岩波書店
  『ポパイの影に』みすず書房
  『ダーウィンの世紀末』青土社

(初出:ショートカット 63 号 1996 年 4 月 1 日発行)


解 説

 この回で私は体育会系に厳しすぎたかもしれない。実際のところ、体育会系の人間には気持ちのいいやつが多いのも事実だ。礼儀正しく、下らない事でクヨクヨ悩まず、言い訳を一切しない、など。しかしこういった人間は社会の枠=目標がしっかりある時はいいが、現在のように社会の目標がはっきりしない=枠がゆるんでいる時にはやはり駄目であろう。なにをしていいのか自分で決めることが出来ず潰れていったり、時にはわけのわからないまま暴走して、癌のように有害になる恐れもある。もともと万事につけていい加減な私は昔から「そのうち『いい加減』が美徳になる時代がくる!」とうそぶいていたのだが、本当にそんな時代がやってきたようで、嬉しいやら不気味やらで複雑な気持ちだ。

 宮台真司は、こういった目標のない=枠のゆるい社会の事を「成熟社会」と呼び、そこで「いい加減」に生きることを、「まったりと脱力して」生きると呼んで、それを新しい生き方の作法として推奨している。これは一見私の言っていることと似ているのだが、実は微妙に違う。それは宮台の推奨する生き方のモデルがコギャルである事からも分かるであろう。私のモデルはテクノ・モッドである。

 私のいうテクノ・モッドとは、要するにスタイリッシュに生きることを指す。現在の状態に自足してまったりと脱力してしまうのではなく、常に自らに何かを課し、スタイルの彫琢を目指すこと。それでは「スタイリッシュに生きる」ことと、「いい加減に生きる」こととは両立するのか。これが私の考えでは両立するのだ。

 スタイリッシュであるためには常に意識的でなければならない。意識的に何かを切り捨て、何かを構築しなければならない。そして意識的であるが故に、何を切り捨てたかという事は明瞭にわかるし、また自らの構築されたスタイルはフェイクであるという事がはっきりと分かっている事になる。この自らの生はフェイクであり、この世には自分の切り捨てたものがある、という確固とした認識が、「いい加減に生きる」ということを美徳とするのだ。自らの生を無前提に絶対化しないこと。

 私がこのオパール WEB サイト上で書くようになってから、特にレビューとサラテクの私の文章から受ける印象と、実際に会った私の印象が食い違うという意見をよく聞かされるようになった。どうやらレビューとサラテクの私の文章からは、政治的で、熱く、厳しいという印象を受けるようなのだ。しかし実際の私から受ける印象はヘラヘラとしたいい加減な野郎だ。この事はスタイリッシュである事といい加減である事の両立の一例とはなっていないだろうか。何度でもいうが、スタイリッシュであるという事はフェイクなのだ。そして私はスタイリッシュである事に妥協はしたくない。それは端的に格好悪いことだからだ。ファッションというものは完璧にきめなければならないのだ。だから私の文章に異常に厳しいものを感じたとしても、それはフェイクだという事を分からなければならない。むろんフェイクだからといって、嘘をいっているというわけではもちろんない。真剣に本気でフェイクなのだ。このことを分かるのが、「いい加減に生きる」という美徳を身につけることとなるだろう。

 最後に参考文献がついているが、これは足りなかった字数の穴埋めであり、たいした意味はない。が、これらの本は面白いので、興味を持った方は読んでみたらいいと思う。私自身は、何が書いてあったかほとんど覚えていないが。

小川顕太郎


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