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Book Review 1999・10月21日(THU.)

万延元年のフットボール」
 大江健三郎

 大江健三郎という作家はずっと気になる存在だった。

 まず私が大江に対して感じるのは嫌悪である。それは自分の事を「戦後民主主義者」だとヌケヌケと語り(そしてそれは全くその通りなのだが)、酒鬼薔薇事件の時に「なぜ人を殺してはいけないのか」と言った子供に対して、誇りのある子供はそのような質問は恥じて口にしないものだ、と答えたりする正に「戦後民主主義者」そのものの偽善者ぶり、文革礼賛・北朝鮮礼賛と『ヒロシマノート』『オキナワノート』などの反米的な仕事にうかがわれる旧左翼ぶり、岩波や朝日といった一流紙でしか書かず、自分に対する批判は圧力で押し潰すといった権威主義者ぶりなどが、とにかく嫌だったのだ。この間のノーベル賞受賞にしたって、そのためにスウェーデン大使館に通ったりと様々な政治工作をしていたのは周知の事実だったし、大体その直前に文化勲章を辞退するというパフォーマンスもなんか嫌らしくて不快だった。天皇制はダメでスウェーデンの王制ならいいのか? 大体その昔サルトルのノーベル賞辞退に喝采していたではないか。

 一方で、やはり彼が近代日本文学を語る上で避けて通れない人間だということも分かっていた。実質的に最後の文学者である中上健次も、大江の圧倒的な影響下から出発しているし、なにより私の大好きなシブサワタツヒコが「戦後に輩出したおびただしい作家たちのなかで、真にスタイルの革命と言い得るほどの革命をなしとげた作家は、おそらく大江健三郎ただひとりではないかと私は思う」と褒めていたのだから気にならないわけがない。

 だから私はシブサワの褒めていた大江の初期作品から読み始めた。『飼育』『鳩』『人間の羊』『セブンティーン』…など、確かにこれら初期の大江の作品のスタイルは独特で、極度に人工的で乾いた文体でいながら妙にエロティックなイメージに溢れ、才気が随所にきらめいているといったもので、これならシブサワが褒めるのもむべなるかな、と納得させられるものだった。しかし大江中期の作品『同時代ゲーム』を読んだとき、そのあまりの文体の弛緩ぶりに思わず本を投げ出してしまった。以来大江の作品は手にとっていない。それがたまたま古本屋でこの本をみつけたため、読むこととなった。これはしばしば大江の代表作と目される作品であり、いずれは読まねばならないと考えていたからだ。

 結論から述べると、素晴しかった。まず何といっても文体がいい。冒頭からグっとひきこんで離さない魅力を持っている。内容的にいっても、「自己処罰」「四国の森の神話的世界」「革命と挫折」などなど大江の終生抱えるテーマがギュっとつまってたぎっている感じだ。この作品は初期から中期への転回点にあたる作品といわれ、実際大江の初期作品の持つ完全なスタイルが壊れはじめる時期にあたる作品なのだが、『同時代ゲーム』ほど崩れてはいず、緊密なスタイルとそれを崩さんとするある力のようなものが危うい所で均衡を保っている。作家が自らの抱えるテーマと真摯に闘い、それを文体という形で生々しく刻印するという、典型的な「近代文学」だと私は思った。文学というものが死に絶えた現在、これはかつてあった「近代文学」の最良の記録のひとつとして、読む価値を今だ有するのではないだろうか。

 人間として最低の奴がうんだ最高の作品。これが私がこの作品に送る賛辞である。

オガケン Original: 1999-Jan-21;

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