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Movie Review 1999・10月28日(THU.)

ワイルドパーティー」
 ラス・メイヤー

 映画にとって最も大切な事とは何だろうか。それは映像と音である、と言えばゴダールになるが、私もそう固く信じるものである。素晴らしい映像と音、その結合があれば、それだけで十分だ、ストーリーなんて二の次である、いやむしろない方がいいのだ。という所までいってしまったのがゴダールであるが、私は必ずしもそこまでいかなくてもよいと思う。物語性、通俗性といったものも、無視しえぬものだと私は考えるからだ。

 ゴダールが指し示す映画の極北は、ある意味、彼の恵まれた環境(大金持ちの道楽息子で、それ故に膨大な映画的教養を持ち、ヨーロッパ人である)に支えられた、階級的なものといえるだろう。我々の大部分は、それに無縁とはいえぬが、縁遠い事も確かだ。ゴダール好きを自認する人間にスノッブな奴が多いのも、ここら辺りに起因すると思われる。なぜなら貴族に憧れ、偽装しようとするブルジョアの事を、「スノッブ」と呼ぶからである。(もちろんゴダールは大ブルジョアの息子だが、ここでいう「貴族」「ブルジョア」というのは比喩であることに注意してほしい。この比喩でいえば、我々日本人の大部分は「プチブル」という事になるだろう)

 それでは我々プチブルにとってのゴダール=映画の極北を示してくれる人は誰だろうか。ラス・メイヤーこそ、その一人だと私は断言する。そしてこの『ワイルドパーティー』は、『ファスタープシィーキャット、キル! キル!』と並んで、そのラス・メイヤーが映画の極北を示してくれた作品なのである。

 ここには我々の生きる大衆社会の中での最高にカッコヨイ映像と音がつまっている。というかそれのみで出来ている。余分なものはほとんどないと言っても過言ではないだろう。もしかしたら、この映画の持つ通俗性、ご都合主義、ストーリーの破綻などを取り上げて、これを失敗作と断じる人がいるかもしれない。しかし、そんな人は何も分かっていないのだ。

 単に通俗性、ご都合主義、ストーリーの破綻等を備えた 3 流作品はそこらにゴロゴロ転がっている。が、『ワイルドパーティー』は、そんな失敗作とはまるで違う。なぜなら『ワイルドパーティー』には、最高の映像と音を支えるために、通俗性、ご都合主義、ストーリーの破綻等があるからだ。この点はゴダールも同じである。ゴダールの作品のストーリーはご都合主義的だし、破綻に満ちている。初期の作品には通俗性も満点だ。しかしそれらが全て最高の映像と音を支えるためにあるからこそ、素晴らしいのだ。

 ストーリーより映像と音に重きを置くという事は、細部にこそ神は宿るという真理を体現していることになるだろう。統一的な人生の全体性より、刹那の美(映像)と快楽(音)を重視する事。これこそが、『ワイルドパーティー』の体現している倫理だろう。そしてそれはまたゴダールの、ラス・メイヤーの、そして何より私の倫理でもあるのだ。私は Z マンになりたい。

オガケン Original: 1999-Jan-28;

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