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Movie Review 1999・10月07日(THU.)

マイ・ネーム・イズ・ジョー
ケン・ローチ監督作品

 主人公のジョーは元アルコール依存症患者であり、アルコール依存症を直す相互扶助の団体「AA」でアルコール依存症を直す。映画はその「AA」で、「自分語り」をするジョーの姿で幕を開ける。この「自分語り」というのは、大勢の他人の前で自分自身について語りアイデンティティを強固にするというもので、「AA」における治療の大きな部分を占めている。この事実によって、アルコール依存症というのがアイデンティティクライシスに深く関係する病だということが分かるだろう。

 患者は自分自身に関するみじめな話をする。いかに自分は駄目人間であったか、どんなに周りの人達に迷惑をかけてきたか、など。そしてそれが全て酒のせいであるというふうに話は流れ、最後に「酒をやめた」という事実が「駄目な自分の克服」と同じとみなされ、患者は自分を肯定でき、治癒する。患者は「酒をやめた=駄目な自分を克服した」という事実を誇り=アイデンティティの核として、立ち直る事ができるのだ。

 ここで決定的に重要なのは、「AA」が他の「断酒会」のような団体と違って、匿名性を重んじるという事だ。これはどういう事かというと、つまり「AA」では「自分語り」をする時に、嘘をついてもかまわない、という事なのだ。誰もその患者の名前以外は知らず、詮索もしない(してはいけない)ので、どんな嘘をついても構わないのだ。これは人前でとても喋れないような心の傷を持った人間にとっては救いだろう。たとえ嘘でもいいから、自分に関するストーリーをでっちあげ、それが皆に受け入れられるなら、患者の心は安定するだろう。そしてその事が、つまり何とかして社会生活が営めるようになることが、「治癒」なのだ。

 だからジョーが「AA」で治療を受けているという事実は、この映画にとってキーポイントである。なぜか。ジョーはスラムで生まれ育っているのだが、自分と境遇の違う女性と恋に落ちる。そしてある事件に関してその女性に嘘をつくのだ。その事件とは甥っ子を助けるために自分が悪事に手を染めるというものだが、福祉局で働いているような彼女には絶対に理解されないと分かっていたからだ。しかし、不幸な事にその嘘がばれ、そこから破局がもたらされる。ジョーは必死になって事態の収拾を計ろうと様々な手を尽くすがだめだ。彼女はジョーが自分に嘘をついていたという事実が許せないのだから。二人とも激しく傷つく。彼女は自分が嘘をつかれていた、自分は信用されていなかった、心を開かれていなかったという事実に激しく傷つく。そしてジョー。彼は映画の中で自分の事について色々と彼女に語る。自分はどういう人間か、何故アル中になり、如何にしてそれを克服したのか、など。しかし、それらが本当であるかどうかは実は分からないのだ。それらは全て「AA」における「自分語り」で作られた話かもしれないのだ。ただ、もしそれらの話が作られたものであるとすれば、彼の隠した彼の人生とは、とても人前では話せない、もし話せば精神が崩壊してしまうようなものではないかと推察されるだろう。その証拠に、ジョーは彼の嘘が彼女に受け入れて貰えないと分かった時に、再びアルコールに手を出すのだ。彼のアイデンティティーはかろうじてその「嘘」によって保たれていたのだから。

 私のようないい加減な人間からみれば、この「アイデンティティー」こそが病に思える。実際の所、自分に対する自分語り=自分騙りである「アイデンティティー」と、自分を放棄する要素を含む「恋愛」とは、本来両立しないものではないだろうか。そういった意味でこの映画は、現代の病を本質的に突いた映画だと思われる。

『マイ・ネーム・イズ・ジョー』とは、その題名が示すように、「アイデンティティー」にまつわるお話しなのである。

オガケン Original: 1999-Jan-07;

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