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Movie Review 1999・12月11日(SAT.)

ソドムの市

 人間の欲望を肯定的に描いた「生の 3 部作」を撤回し、新たなる闘いの一歩としてパゾリーニが叩きつけたのが、この「ソドムの市」である。

 何との闘いなのか。もちろん、新資本主義がはびこる「現代」との闘いである。新資本主義は人間の欲望を絶え間なく作り上げ、それを高度に組織化し、エネルギー化して動いていく。故に「欲望」を無邪気に肯定するだけでは、かえって敵の術中におちいることになるのだ。そこでパゾリーニのとった方法は、新資本主義のおぞましさをその魅惑とともに提示すること、である。それによって我々に覚醒を促すのだ。「ソドムの市」の舞台は我々の住む世界である。その事を以下に示そう。

 サロの別荘に狩り集められた少年少女達に向かって、支配者のひとりは宣言する。「ここではあらゆる欲望が許されている」と。あらゆる欲望が許されている、とは正に新資本主義のことである。人間の欲望は常に制限されてきた。習慣によって、迷信によって、宗教によって。それらの制限を取り払い、皆が自らの欲望の赴くままに活動することを許し、あまつさえその活動を強制するにまでいたったのが、新資本主義である。我々はあらゆることを「欲望」しなければならないのだ。我々の「欲望」が新資本主義を動かしているのだから。しかし、あらゆることを欲望する、とはどのような事なのだろうか。

 例えば性行為において、正常位だけでなく後背位もやる、アナルファックもやる、近親相姦もやる、SM もやる、スカトロもやる、といったことだ。冗談じゃない、ウンコなんて食いたくないよ! とあなたは言うかもしれない。しかし、欲望とは作りだされるものなのだ。新資本主義の世界においては、新たな欲望をいち早く身につけたものが勝者である。その人間こそトレンドリーダーなのだ。

 実際映画の中で、少年少女達がウンコを食わされる。これにはもちろん嫌がらせという意味合いもあるが、教育的意味合いもあるのだ。なぜなら支配者達自身もウンコを食う。そしてその事を彼等は「洗練された趣味」として自慢しているのだ。もちろん、新資本主義世界においては、この事は正しい。我々は常にトレンドリーダー達の欲望を身につけようとしているからだ。

 卑近な例を述べよう。昔から、物に執着し集める行為は異常であり、忌むべきものとされ、コレクターやマニアは奇人変人と相場が決まっていた。それが今ではかっこいい事となり、コレクターを気取る人間が増えた。雑誌には「レア物」という言葉が飛び交い、なんにだってすぐプレミアがつく。「ウンコ食い」が一般化したのだ。

 また昔は表現者・クリエイターというのは異常者だった。キチガイとされ差別されていた。それが今では、非常に多数の人間がクリエイターに憧れる。ウンコを食いたい、という気持ちが内面化したのだ。映画の中で泣きながらウンコを食べていたのは、あれはまだ新資本主義に冒されきっていない少女である。現在の我々は喜々としてウンコを食べている。それがパゾリーニの突きつけた現実なのだ。

 最後に少年少女達の舌を切ったり、頭の皮を剥いだりといった拷問をするのだが、その時に支配者達は一人ずつ交代で、離れた所から拷問の様子を望遠鏡で覗き見る。なぜこんな事をするのだろうか。もちろんこれは「覗き見」趣味である。「覗き見」は現代でも下品な行為とされ、忌まれている。しかし本当にそうか? 現代の人間はみな「覗き見」という欲望をすっかり身につけてしまっているのではないだろうか。

 もちろん私の言っているのはテレビのことである。我々はみな安全圏から他人の不幸を「覗き見」るのを楽しんでいる。そこでハタと気付く。あの映画の中で、椅子に座って拷問のさまを嬉しそうにみている醜いファシスト野郎は、私のことではないのか? 私は今までこの映画館の椅子に座って、画面に展開する残酷シーンをずっと「覗き見」ていたのではないだろうか、と。

 パゾリーニは本当に過激な闘いを始めたばかりだったのだ。このように、人々が嫌がる「真実」を突きつける映画が、受け入れられる訳がないのだ。その証拠に、パゾリーニは暗殺される。あえて「暗殺」と書いたが、死の真相が未だ謎につつまれたままとはいえ、私はパゾリーニが暗殺されたことを確信している。パゾリーニが始めた闘いは、無惨にも始まって早々に断ち切られたのである。

 この「ソドムの市」を観て感銘を受けたものは、パゾリーニの闘いを受け継がなくてはならない。

オガケン Original: 1999-Dec-11;

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