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 Movie Review 2003・12月17日(TUE.)

アララトの聖母

 カナダ的なクールな作風(適当です)、『エキゾチカ』『スイート・ヒアアフター』、アトム・エゴヤン監督(通称:エゴやん)新作は、1915 年トルコ軍によるアルメニア人大虐殺を描く試みです。300 万人いたアルメニア人の約半数 150 万人が虐殺されたとのこと、迫害を逃れたアルメニア人たちは北米、ロシア、シリアなどに離散、エゴヤン自身も、北米に逃れたアルメニア人の子孫であるという。

 エゴヤン曰く、

「この虐殺をトルコは今も事実として認めようとしない。拒絶を続けることがどんな結果を生むのか。息子にせがまれて、私がアララトの悲劇を話したところ、『トルコ人は謝ったの?』と尋ねられた。トラウマが息子の世代まで引き継がれないよう、現代に続く問題として映画化を決意した。虐殺の細部は、当時現地にいた米国人宣教師の著作に基づく」http://www.mainichi.co.jp/life/cinema/kiji/0310/14-02.html

 …との意欲的な言葉、スピルバーグ『シンドラーのリスト』のような感じか? と思いましたが、「大虐殺を映画にするとはどういうことか?」と悩みまくり、ってスピルバーグも悩まなかったわけではないのでしょうが、『シンドラーのリスト』直球・剛速球勝負に対し、『アララトの聖母』は凄い変化球になっております(迷走しているわけではなく)

 この変化球ぶりは、ジェノサイド生き残り関係者の証言でつづった 9 時間 3 分『SHOAH』クロード・ランズマンが、『シンドラーのリスト』を批判、「ホロコーストを表象することの不可能性」議論をふまえた結果であろう。って私、『SHOAH』未見、議論もどうなったか知りませんので適当ですが、もの凄い悲劇をネタに映画を作るとは、たやすく野蛮に陥るもの、また、映画として作られた時点で、「どこまでが本当の話か?」「どういう捏造が行われたのか?」と、素直でない人(含む私)から疑いのまなざしを向けられることになる。

 そういう映画化困難な題材、しかも、ユダヤ人虐殺は「ナチス・ドイツ=人道に対する極悪犯罪者」というのが国際的な了解事項、ナチをどれだけ悪者に描いても文句がつけられないのに対し、アルメニア人虐殺はトルコ政府も認めておらず、政治的にデリケートな題材で、なかなかストレートに映画にしにくい事情もございましょうね。

 さて“アララト”とは、アルメニア人が聖地としてあがめるお山の名前、お話を簡単にまとめると……

  • 米国人宣教師アッシャーが見聞きした、虐殺の顛末。
  • それは映画中映画として描かれます。アッシャーを主人公とする映画『アララト』を作ろうとする著名な監督サロヤン(演じるはシャンソン歌手シャルル・アズナブール。アルメニア人だそうです)のメイキング・ストーリー。
  • 成長した画家アーシル・ゴーキーが、代表作『芸術家と母親』を製作する過程。ゴーキーもアルメニア人虐殺の生き残りである。
  • ゴーキーを専門に研究する美術史家アニとその息子、義理の娘の確執。アニの夫は、少し前に変死している。
  • 『アララト』はカナダのスタジオで製作されます。スタッフに加わったアニの息子ラフィは、CG 合成するトルコの風景を撮るため現地へ向かう。
  • ラフィは、撮影済みフィルム缶を持ってカナダの空港へ降り立つ。税関職員デビッド(クリストファー・プラマー)は「フィルム缶の中身が麻薬ではないか?」とラフィを足止めする。果たしてフィルム缶の中身は、フィルムか? 麻薬か? ババーン!

 ……って、全然簡単にまとまらなくて往生するのですが、錯綜する登場人物、虚構と現実の間を行ったり来たり、時代が右往左往、多面的な考察の跡がうかがえ、そういう点ではチャーリー・カウフマンが悩みまくった『アダプテーション』に似ておりますね。意外なところで人間関係がつながるところは『マグノリア』風でもある。しかし、「小細工を弄する」印象でないのは、ドッシリとした製作意図があるからで、広く大衆にアピールするなら単純な話の方がいいけれども、クール過ぎるエゴヤン、ついつい話をややこしくしてしまった、みたいな?

「事実」をもとに映画を作ることは、常に「捏造」がともなうことが描かれます。「少年ゴーキーがゲリラ戦で活躍する」「見えるはずのない場所から、アララト山が見える」など、事実と反する描写を「映画的には正しい」と映画中映画監督サロヤンは容認する。サロヤンは、思慮深い人間として描かれており、「そもそも映画は、事実を描くのが無理なメディアである」と了解/達観しているかのようです。

 では真実とは一体何か? 真実はどこにあるのか? 真実を描くにはどうすればいいのか? 真実を伝えることはできないのか? 「過去の真相など誰にもわからない」のか? 歴史は単なる「物語」に過ぎないのか? 否、真実は存在するはずだ、とエゴヤンは言う。あるいは信じている。

 アーシル・ゴーキーは虐殺を生き延びてニューヨークに渡り、画家として成功します。ゴーキーは完成させた『芸術家と母親』の一部を壊し、「未完の絵画」として完成させる(矛盾してますね)。なぜゴーキーは『芸術家と母親』を壊したのか? ここに「真実」が存在する。そうせざるを得なかったゴーキーの胸中想像するに余りあり、圧倒的に感動する私の、この感動は真実の感動ではあり得ぬか? と、私は呆然と涙したのでした。ってよくわかりませんが、ゴーキー作品に対する見方が変わりました。

 アーシル・ゴーキーは「抽象表現主義」の先駆者で、ピカソ+ブラックの「キュビズム」と、ジャクソン・ポロックの「アクション・ペインティング」をつなぐ存在と言われております。「抽象表現主義」「アクション・ペインティング」といえば、伝統的な絵画の伝統とは一見無縁、「何がいいのかさっぱりわからん」「意味わからんし」「こんなんやったら自分でも描けるし」みたいな現代美術の代名詞的存在、しかし、アルメニア人虐殺の歴史を知れば、ゴーキーが新しい表現形式を求めた心情が理解できましょう。すなわち「近代的な軍隊による民族殲滅作戦」という近代的な現象を表象するために、「抽象表現主義」が生まれたわけで、ゴーキーがいったん完成させた絵画を塗りつぶした瞬間、「アクション・ペインティング」が生まれ、モダン・アートは飛躍を遂げたのであった。京都・京極弥生座 2 ではこの作品の後、『ポロック 2人だけのアトリエ』が上映されてまして、なかなか深いプログラムでございますね。

 そんなことはどうでもよくて、閑話休題。クリストファー・プラマーは疑うことを仕事とする税関吏で、虐殺を信じない/知らないカナダ人の代表であります。フィルム缶を持ち込もうとするラフィを徹底的に尋問します。ラフィの「適当な答」の欺瞞が、次々に暴かれていく。徹底的な対話でこそ真実に到達できる。信じることを語る者がいて、疑っている者を信じさせることができれば、たとえ事実と違っていてもそれは「真実」と言っていいのではないか? エゴヤン監督は、「過去の真相など誰にもわからない」というニヒリズムとは無縁、人が人を信じる力に信頼を置くのであった。

『エキゾチカ』『スイート・ヒアアフター』同様、説明的な描写が排され、登場人物の関係がややこしく、始めは何が何だかよくわからないのですが、事態が飲み込めたのちの展開はスリリングで一気に見せます。

 ともかく「ジェノサイドを表象すること」の不可能性に挑み、あらゆる面から考察したエゴヤンの意欲作にてバチグンのオススメ。

☆☆☆☆★(☆= 20 点・★= 5 点)

BABA Original: 2003-Dec-14;

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