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 Diary 2003・11月25日(TUE.)

映画秘宝」を読む

 雑誌「映画秘宝」1 月号を読む。特集は「『C*T』なんか信じるな! 至高のロック映画 69」である。ははは、またやつてゐるなー、と笑つてしまつた。この人たち(?)は、本当にロッキング・オンが嫌いなんだな、と。もちろん「C*T」とは、ロッキング・オン社から出てゐる雑誌「CUT」のことである。「CUT」が「究極のロック・ムービー 100」といふ特集を組んだことに対して、「片腹痛いわ! 手本を見せてやる!」と異議申し立てをしたものだ。私は「CUT」の方は読んでゐないが、ま、そりゃ「映画秘宝」の方が面白いでせう。今まで散々ロッキング・オン系のモノに綾をつけてきてゐるが、大抵「映画秘宝」系の圧勝である。私が印象的に覚えてゐるのは、ロッキング・オン社が鳴り物入りで雑誌「H」を創刊した時、「秘宝」系の主要メンバーであるファビュラス・バーカー・ボーイズが、その「ラス・メイヤー特集」を完膚無きまでに叩きのめしてゐたことだ。あれは鮮やかな勝ちだつた。これで「H」も終はつたな、始まつた瞬間に…と、その時は思つたのだが、案に相違して(?)、何ごともなかつたやうに「H」は続き、ロッキング・オン社は安泰のやうにみえる。ま、そんなもんか、現実は。批評なんて、無力なもんだな。

 …などと、気楽に考へながら「映画秘宝」のページを捲つてゐたのだが、そのうち、ちよつと考へこまされる文章に出くはした。それは、町山智浩のロバート・ゼメキス批判の文章である。。町山智浩は、随分前からロバート・ゼメキス批判をしてをり、私も昔に同趣旨の文章を読んだことがある(あれ? ガース柳下のロバート・ゼメキス批判だつたかな? 私が読んだのは)。で、昔読んだ時と基本的に変はつてゐないその批判の骨子は、ロバート・ゼメキスはカウンターカルチャーを否定する 80 年代保守反動を体現した監督だ、といふもの。ゼメキスが作つて大ヒットさせた『バック・トゥ・ザ・フューチャー』『フォレスト・ガンプ』などは、徹底的に 60 年代・70 年代のカウンターカルチャーを否定し、80 年代のレーガノミックスを支持する思想に貫かれてゐる、といふのだ。それは、まァ、その通りだらう。しかし、その事を指摘するだけでは、批評として決定的に弱いのだ。町山は言ふ。「カウンターカルチャーは最終的に敗北したが、決して無意味な過ちではなかつた」「人は醜い真実を知って大人になるのだ。つまり 60 〜 70 年代は若い国家アメリカにとって、ママと神様とアップルパイを素直に愛するガンプが大人に成熟するための思春期、避けることのできない通過儀礼だったのだ」。それなのに、ガンプは大人に成熟するどころか無知な子供のままだ(それはカウンターカルチャーを否定したからだ)、とでも町山智浩は言ひたげである。しかし、そうだらうか。

 町山智浩が目の敵にする 80 年代の保守反動=レーガンを支へた人たちは、ネオ・コンと呼ばれる左翼からの転向組である。つまり、60 〜 70 年代をカウンターカルチャー側として過ごし、その負の面に気付いたために、保守側に寝返つた人たちだ。ある意味、通過儀礼を経て成熟した、「大人な」人たちなのだ。町山智浩は、カウンターカルチャーの「反戦運動」「反差別闘争」などを称揚し、それに否定的な保守側を攻撃するが、カウンターカルチャーを通過したネオ・コンは平然と言ひ返すだらう。

「『反戦運動』が逆に戦争をうみ、『反差別闘争』が逆に陰湿な差別をはびこらせたが故に、我々はその修正を図つてゐるのだ。君たちのその幼稚な態度が、不幸を産んでゐるのだよ。はやく大人になりたまへ」と。町山智浩側の方が、通過儀礼に失敗した子供なのではないか。

 もちろん私はネオ・コンを支持しないし、大人ぶつた偽善性には辟易する。それに較べれば、愚直な(幼稚な)左翼の方がマシだ、とも思ふ。が、所詮彼らは同じ穴の狢だ、といふ思ひがある。同じ穴の狢なら、子供は大人に負け続けるだらう。老獪なネオコン(元左翼)に比すると、あまりに町山智浩の文章は幼稚に見えるのだ。これではなァ…。

 などと思ひつつ、ページを閉じた。

小川顕太郎 Original:2003-Nov-27;