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OPAL Dojo シゴキその 2 1月24日(MON.)

みなみ会館「宮川一夫映画祭」上映作品を 3 本以上見て論評せよ!

この課の目標

  1. 日本映画の名作を見て教養を身につける。
  2. 歴史的なモノの見方を学ぶ。

以下、オパール道場弟子おいしんがまとめた『羅生門』、『雨月物語』、『鴛鴦歌合戦』、『浮草』に関する「論評」。


追悼撮影監督宮川一夫特集」

 事の始まりは OPAL カウンター、店主と BABA さんが宮川一夫の話をしていて実はワタクシおいしんは昔の映画を全く見たことがなかったのです。

 記憶をたどって劇場で見た一番古い映画ってなんだろうと思ったらどうも『E. T.』らしい。まあ最近になってパゾリーニなんかを見はしたもののそれは OPAL に通うようになってからの話なのでそれを除くと間違いなく『E. T.』。いやぁいい話でしたね。ってそういう問題じゃないか。

 もちろん黒沢明なんて『七人の侍』くらいしかタイトルは出てこないし、見たこともない。そりゃまずいだろということで現在みなみ会館で上映中の宮川一夫特集を鑑賞するのが今回の課題となったわけです。


「鴛鴦歌合戦」

 時代劇版ミュージカル、戦前の大変だったであろう時代にこんな能天気な作品を作っていたっていうのはちょっとおどろき。映像的にはそんなに「すげー!」と感じるところはなかったのですが、そこから 20 年たった時の『羅生門』との比較をしてみると、白黒も進化していたんだなあと感じました。志村喬にはかなりヤられました。劇場で声を出して笑ったのは久しぶりかも。


「雨月物語」

 大島渚の『御法度』で引用されていた話だと思っていたらなんだか全然違ってびっくり、『雨月物語』ってオムニバスだったんだ。金欲、や名誉欲にとりつかれた二人のオトコが大事なものを失う事によって本当に大事なものに気が付くといった感じの話で、人間の欲求を戒める話ってとこか。しかし最近なにかと雨月を引用している映画があるのが気になる、これも一応読んでおいた方がよさそうですね。


「浮草」

 宮川一夫のカラー映画は初めて見たんですが、今までが全部白黒だっただけにものすごい違和感を覚えました。なんちゅうかイイ話。これはさすがに監督の意図やらを考えるまもなくこのキャラクターに目が行きまくっちゃいました、これは社会性やらなんやらは関係ないですよねえ。って誰に聞いてんだか。じぶんの気持ちに正直に行動する人たちを見てなんだかほのぼのとしてました。


「羅生門」

 僕は今まで黒澤映画を一度も見たことがなく、大して興味もなかったのですが、最初からもう物語に引き込まれてしまいました。スクリーンからすごいエネルギーを感じる、映像もすばらしいと感じたし、個々のキャラクターも存在感を感じるものであってすばらしいと感じました。

 白黒ならではの重量感を感じる雨や、肌や汗の質感に一番視線を奪われて。水溜りがまるで重油のような感じがするという話を BABA さんにしたところ、それは墨汁を混ぜているからとのこと。なるほどそれくらいせんとあの重量感はでないですよねえ。そういう手法を使って雨を描けるというのはまさに白黒の世界だからこそ出来る事だと改めて感心する。

 以前道場主に映画は白黒の時代が全盛期であったと言う話を聞いて、合点がいかなかったことがあった。単純に考えて、色が増えたり音がよくなったりして、映画の中に込められる情報量は格段に増しているはず。そうなると映画の質は上がるのではないか?

 これが結局納得いかなかったわけだったんですが、今回の羅生門の話を聞いた時に情報量の少なさを逆手にとっていい映像を作る事も可能なのだという事は理解できました。カラーで墨汁入りの雨なんて降らせられないですからねえ。なるほどなるほど。…と納得する一方でカラーの映像が白黒に劣るかといったらまた別の話と思っています。

『羅生門』に関してはやはり突出した映画であったでしょうから、同レベルの出来の映像であれば情報量に勝るカラーの方が優れた映像であるはずなのですが。そのあたりは白黒映画をほとんど見ていない僕が論じれるところではないので、これから見ていく中で確認していこうと思います。けど黒澤が「白黒」であることを生かしたように「カラー」であることの優位点を生かす監督もいると思うんだけどなあ。

 浪人おチェケ丸殿に「監督の考え」なんかも考えるといいという風に伺ったので、それについてもちょっと考察してみようかと。思うに人間の本性とはどういったものであるか? というようなことを『藪の中』という作品の形を借りて表現していたのかと思います。あ、単純ですか? はっはっは、おいしんの脳みそなんてそんなもんですわ。

 で、出演しているキャラクターたちはみんなして自分の都合のいいように話をでっちあげるということですが、それは壮大な悪意というよりはちっぽけな見栄の産物であって人間なんてのはそういった見栄や体裁からは離れられないということでしょうか。そして世の中の混乱はそういったちょっとした見栄が積み重なって生まれるものであるという風にも感じました。

 かといって下人のように、開き直った人間ばかりじゃ世の中すさむばっかりだし。坊さんのようにキレイ事ばかり並べ立てているのもよろしくない。結局人間は小悪を繰り返して生きているわけで、そこからはもうのがれることが出来ないということ。しかしその代償はなんらかの形で返していけばいいということを最後のシーンでの志村喬の晴々とした表情が物語っていたと僕は感じたわけです。以上、弟子おいしんの感想でした。

おいしん

OPAL Dojo シゴキその 2 1月26日(WED.)

師範代:馬場三蔵の講評

 おいしんの「感想」…

それは壮大な悪意というよりはちっぽけな見栄の産物であって人間なんてのはそういった見栄や体裁からは離れられないということでしょうか。

結局人間は小悪を繰り返して生きているわけで、そこからはもうのがれることが出来ないということ。しかしその代償はなんらかの形で返していけばいい

 あはははははははははは! …あのなあ、ワシをなごませてどうする? なんでこんなに素直なんや! 妙な先入観がまったくないまま黒澤明を見て、監督のメッセージを素直に受け取ってしまったのだろうが、普通、もう少しヒネくれててもいいと思うが。「日本映画ってつまんない」とか「白黒映画って貧乏くさい」とか言ってる人間よりははるかにマシだけども、なんとかしたまえ。妙なコトを言っても突っ込まれるだけだしなあ、とか思っているのだろうが、もっと、こう、果敢にエラそうなコトを言ってほしいぞ。「『御法度』対談」におけるタケチさんの「大島映画の中でも一番よかったね、あれは誰が見ても楽しめるんじゃないかな。」発言みたいな。

 どうも『羅生門』が気に入ってるみたいなんで、それについて述べる。そもそも『羅生門』とはどういう映画か? 黒澤明の死後ボコボコと出版されたクロサワ本を読めば以下のようなことは大体、書いてあるのだけど、親切にもおいしんのためにここでちょっと触れておく。

『羅生門』は 1950 年、黒澤明が40 歳のときに撮った作品。1950 年代日本映画の黄金時代の幕開けを告げるとともに、日本映画として初めてベネチア映画祭のグランプリを受賞、米アカデミー外国語映画賞も受賞、黒澤明が「世界のクロサワ」となった記念すべき作品だ。たまたま『羅生門』が世界での日本映画評価の端緒となったけれども、1950 年代の日本映画は名作ぞろいであり、特に『羅生門』が「突出した映画」というわけでもなく、強いて言えば「50 年代の日本映画全体が突出していた」ということだろう。まあ、『羅生門』は 1982 年、ベネチア映画祭 50 周年記念の歴代グランプリ作品中のベストを選んだ「獅子の中の獅子」を受賞しているから、おいしんが「突出している」と言うのも、当たっていなくはないんだけど。

 また、撮影監督・宮川一夫と初顔合わせを果たした作品としても意義を持っている。当時東宝の黒澤明が当時大映所属の宮川一夫と出会った映画史的事件(ってなんかカッコいいぞ)がなぜ起こったか? その要因のひとつに「東宝争議」があった。組合つぶしのみを目的に乗り込んできた経営者に嫌気がさした黒澤明は 1952 年の『生きる』まで、『静かなる決闘』=大映(1949 年)、『野良犬』=新東宝(1949 年)、『醜聞(スキャンダル)』=松竹(1950 年)、『羅生門』=大映(1950 年)、『白痴』=松竹(1951 年)と、他社を三船敏郎とともにテンテンと渡り歩くこととなり、そういう黒澤明が独自の手法を完成させていく武者修行時代に宮川一夫と出会ったのである。世の中、何が幸いするかわからんもんです。

 この映画は「世界で初めて太陽にカメラを向けた映画」ということで語られがちだけれど、宮川一夫の撮影のスゴさはそれのみではなく、「薮の中」を自由に駆け回るカメラワーク、そしておいしんも注目した「雨」の撮り方などに、世界中がドギモを抜かれたのであった。ヌーヴェル・ヴァーグの批評家達が提唱する「作家主義」に引っ張られた監督中心の映画観にもとづいて、なんでもかんでもクロサワの功績のように思っている人も中にはいるかも知れないが『羅生門』の美しさは、黒澤明のものであると同時に宮川一夫のものでもあるのだ。最初のラッシュを見た黒澤明が何にも言わないので宮川一夫はビビったのだが、黒澤明は実は猛烈に感動していて言葉が出なかったらしい。後に「宮川くん! 100 点満点以上だ!」と言ったとか。

 ちなみにおいしんは「ヌーヴェル・ヴァーグ」を知らないようだから、少し解説しておくと、フランスに『カイエ・ドュ・シネマ』っつう映画雑誌があって、そこにたむろしていたジャン・リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォー、クロード・シャブロールとかの若い批評家たちが映画を撮りだした、その一連の潮流を指して「新しい波」=「ヌーヴェル・ヴァーグ」という。どこがヌーヴェルかというと、それまでは撮影所で下積みをしてやっと監督になる、というのが一般的だったのが、親の遺産が転がり込んだりしたヤツもいて、映画製作の素人がいきなり映画を撮る、よってそれまでとは違う撮り方をして、「斬新」な映画が続々と出来上がったというわけだ。ゴダールあたりは「京都系。」デザイナーのマスト・アイテムになってるみたいなんで、おぼえておくように。おお、長くなってしまった。

 ところでおいしんは、「同レベルの出来の映像であれば情報量に勝るカラーの方が優れた映像であるはず」と書いているが、映画のハードウェアの進歩が破壊したモノについて考えたことがあるだろうか。そう、映画製作者たちのトンチが破壊されたのである。

『羅生門』に「あのとき、風が吹かなかったらあんなことにゃあならんかった」というシーンがあり、ここで「風をいかに表現するか?」という問題が生まれる。さて、おいしんだったらいかに表現するだろうか? 情報量に勝るモノが優れているのなら、映画館に「そよ風発生器」を取り付ければ良い、ということになる。「んなアホな!」と言うかもしれないが、映画が音付きになり、カラーになり、シネマスコープになり、コンピュータによる画像処理が行われるようになり、ユニヴァーサル・スタジオの『バック・トゥー・ザ・フューチャー・ライド』みたいに座席が揺れたり…という映画のハードウェアの進歩とは、「そよ風発生器」と同じモノだ。技術の進歩=ダメというわけではないが、技術に頼ってトンチを発揮しないクリエイターはダメ。『羅生門』演出にあたって黒澤明たちは「無声映画のように撮る」という方針を立て、モノクロ・スタンダードの画面にトンチを思う存分発揮している。彼らが「風」をいかに表現したかを思い出してくれ。

 WEB デザインにあてはめて考えれば、1670 万色使って文字がヒョコヒョコ飛び跳ね、音もポコポコ鳴るでよ、という最新機能満載サイトが得てしてつまらんのと同じことなのだ。トンチ・パワーなくして真の WEB デザイナーになることあたわず。心してトンチを磨くべし。以上。

馬場三蔵

OPAL Dojo シゴキその 2 1月28日(FRI.)

小形剣之信道場主の講評

 荒井晴彦によれば、90 年代は大量の馬鹿が発生した時代だという事になるが、オイシンをみていると納得せざるをえない。

 まず、ものを知らなさすぎる。情報がこれだけ溢れているというのに、肝心な事は何も知らない。前にもオイシンには言ったが、情報は溢れればいいというものではない。どんな時代でも本当に必要な・良質な情報というのは少ない。情報量が増えるというのは、端的にいって、下らない・どうでもいい情報が増えるという事なのだ。確かに情報量の増加に伴って、良質な情報も多少は増えるだろう。しかし、下らない・ゴミのような情報の海に溺れて、肝心な情報にまでたどり着けない大量の馬鹿が発生することになる。故に 21 世紀は、良質な情報を握った少数のエリートと、何にも知らない大量の馬鹿とに、階級分化するであろう。もちろん、オイシンは今のままでは 90 年代大量発生型馬鹿のひとりである。

 それから、この 90 年代大量発生型馬鹿は、考えが幼稚である。情報量が増えたり、テクノロジーが進化すればそれで良いと単純に考えているふしがある。だからウェブデザイナーなどに成りたがるのだろう。コンピューターによるデザイン、という分野が、一番この手の幼稚な考えがはびこっているだろうからだ。日々新しいテクノロジーが開発されたり、新しい情報が提供されたりしているので、金を払ってそれを手にいれれば、自分が進歩したような錯覚に容易におちいれるのだ。しかし、ここではっきりいうが、情報量やテクノロジーは、ものごとの善し悪しには関係ない。それを映画について学んで欲しかったのだが、オイシンには無理だったようだ。

 それじゃあな、オイシン。絵画について考えてみろ。顔料の質が格段に良くなり、古今東西の絵に関する情報も飛躍的に増えた現代において、例えばラファエロを越える画家が何人いるというのか? えっ!? もしかしてラファエロを知らないんじゃあないだろうな。

 あと、同レベルの映画なら白黒よりカラーの方が情報量も増えていいはず、などと戯言を書いていたが、「同レベル」とは一体なんや? これが映画そのものレベルの事であれば、「羅生門」は正に白黒映像の美しさによってその「映画的レベル」が維持されているので、「同レベル」を維持するためには白黒でなければならない。つまり白黒で且つカラーの映画の方が…という話になるが、一体どういうことや。自分がいかに非論理的なことを書いているか、自覚すること。もう少し頭を使え。以上。

小形剣之信

OPAL Dojo シゴキその 2 2月1日(TUE.)

浪人:おチェケ丸殿の講評

「…それは壮大な悪意というよりはちっぽけな見栄の産物であって…(中略)…しかしその代償はなんらかの形で返していけばいいということ…。」

 ……あーびっくりした。しかし、こんなん書いてどないするン。これ。「普通」過ぎるやないのン。こんなん「ぴ○」とかの情報誌の最後の辺にある「読者のページ」やったら、間違って載せてもらえるかもしれんけど。

違おてへんヨ。ぜんぜん違おてへんヨ。これでいいんかもしれん。「監督の考え」が↑ってのは、確かにそうかもしれん。でもでも、たとえば中学校の学園祭で『藪の中』を原作に中ボウが撮った映画を上映してたとして、それを観たおいしんが書く感想もおんなし感じになるんとちゃうんかなあ。違うんかなあ。(※ 1)

 とにかく、心の中を正直に書くのんはもお結構やから。少しやねえ。もっとなんかこお、多少のウソ(捏造)なんか交じっててもええと思うんやわあ。もっと戦略的にというか、なんというか。「おいしんの脳の中」をおいしんが再構成するっちゅうか、再構築するっちゅうか。あああああぁ、皆を「あっ」と驚かしてくれるようなショッキングな文章を書いてくれえ!! あまりにも無防備過ぎるワ。ただただ切られるだけぢゃなく、刀を抜いて、ブンブン振り回すぐらいのことはした方がええヨ。

 どぅおぅりゃああああ。

 あの、今ちょっと思いついたんやけど、おいしんが「おいしんの脳の構造」っていうレポートを書くってのは、どう?

(※1 中ボウにましな映画が撮れんということでもありません。単なる例えです、念のため。)

おチェケ丸