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From Readers 2000・8月8日〜

From readers 8月8日(TUE.)

「性同一性障害」のこと

Betch こと物部直樹さんの投稿

 ちょっと前の話ですいません。7 月 30 日の店主の日記を読んで思うことがあるので書きます。「性同一性障害」のことです。

 まず言葉の整理をしておきたいと思います。これから書くこと、セクシャリティーに関わる話で重要な言葉です。

  1. 「セックス」→性別。生物学上の性差です。大多数の人は「男性」か「女性」とされます。しかし「両性具有」の人もいます。「両性具無」の人がいるかどうかは不勉強なので分かりません。

  2. 「セクシャリティー」→性的嗜好。「何に欲情するか」ということです。狭義では「異性」に欲情するのか(ヘテロセクシャル)、「同性」に欲情するのか(ホモセクシャル)、どちらにも欲情するのか(バイセクシャル)、どちらにも欲情しないのか(アセクシャル)ということ(など)を表します。しかし広義でいえばまさに「何に欲情するのか」ということです。つまりは、太った人に欲情するのか、痩せた人に欲情するのか、子供に欲情するのか、年寄りに欲情するのか、動物に欲情するのか、毛深い人に欲情するのか、スキンヘッドに欲情するのか…。挙げていくときりがありません。「セクシャリティーは海のように深く、広い」のです。

  3. 「ジェンダー」→社会的性差(違ったかも?)。いわゆる「男らしさ」「女らしさ」です。道徳や伝統、経験によって意識付けされたものです。BBS にあった、管理人氏の「男は柔道、女はテニス」はジェンダーに関わる事柄です。

 言葉の説明を終えて、日記で気になった部分を書きます。何か「あげ足取り」「重箱のすみつつき」ですが、やっぱり気になるので書きます。

  1. 「その上で、まあ女性から男性に性転換をした人なら、普通は女性を愛する」

    →「普通」という言葉がちょっと引っかかります。上記に述べたように「セクシャリティーは海のように深く、広い」ので、「普通」とか「異常」とかいうことは当てはまりません。十人十色です。こういうときは「多数」とした方がしっくりくるのではないでしょうか。

  2. 「『性同一性障害』は分からない。ゲイは分かる。」

    →実にメイン・ストリーム側の言い回しです。「分かる」「分からない」の問題ではないと思います。分からなければ、存在そのものを否定するってことに繋がるのでは? と危惧します。分かる分からないという以前に、現実に存在するのです。少数かも知れません。でも数が少ないだけであって、異常ではありません。セクシャリティーや自分の性別の捉え方が違うだけです。

  3. 「とりあえずは『ありのまま』を肯定する事。そこから『憧れ』に向かって進みはじめる。」

    →人間誰しも(? 少なくとも僕は)自分の身体に劣等感、嫌なところを持っています。たとえば僕は毛深い身体がコンプレックスで、中学生の頃は剃ったり脱毛したりしました。今はある程度受け入れていますが、完全にそのコンプレックスを克服したわけではありません。しかし今、僕は今「自己否定」することを否定しません。そのこと自体とても自然なことだと思うからです。

     同時に「自己否定する」ことを否定することも否定しません。自己否定をどう捉えるかは人それぞれです。時と場合にもよります。他人がとやかく言うことではないと思います。次元は違うと思いますが、性同一性障害にしても、自分の性にしっくり来ずイライラしているのなら性転換して穏やかになった方がいいと思います。自己肯定しているかどうかは重要ではないと思います。

 この文章の全体的に店主氏が、「ヘテロセクシャル」「ゲイ」「性同一性障害(者)」を分けようとしているように感じました。自分とは別物である、と分けようとしているように感じました。個性のたった一つで全てを決めてしまっているのではないかと思いました。どうですか?

 多少、過剰に反応している部分もあるかも知れませんが、書かせていただきました。

Betch こと物部直樹:Web サイト→ Betch's home page


ベッチさんへの店主のお返事

 ベッチ投稿有り難う! では、さっそく返事をさせていただきます。

 まず最初に、ベッチはちょっと思い違いをしているのではないか? と思います。私に対する批判 1 と 2 を見てみると、ベッチは私が「普通」と「異常」という区別をたて、それを「多数派」と「少数派」に当てはめた上で、「少数派」の存在を否定しようとしている、と考えているようです。そして私が「性同一性障害者」=「少数派」=「異常」という括りで、「性同一性障害者」の存在を否定している、と考えているようです。

 しかし、自らの事を「異常」と呼び、「自分達は障害者なんだから、正常になりたい!」と言っているのは、「性同一性障害」の人達なのです。私はそこにひっかかって、「どういうこっちゃ? わけわからんぞ?」と言っているのです。

 これをベッチの例で言ってみますと、ベッチが「毛深い身体なんて人間の身体じゃない! だから毛深いボクは障害者なんだ。正常になりたい!」と言っているみたいなものです。これは毛深い身体の人に対して非常に失礼ではありませんか。

 私は、「性同一性障害」の人達のこういった主張に、なんとなく差別的なものを感じて、うだうだ拘っていたのです。あの日記を書いた後、気になったので少し調べてみたら、案の定「性同一性障害」の人達は、ゲイやバイに否定的な人が多いそうです。ベッチの理解は逆だったのではないでしょうか。

 次に批判の 3 に移ります。これはちょっと私の文章が分かりにくかったようです。何故なら、BBS でババさんも同じ様な誤解をしていたし、他にもお客さんから似たような事を言われましたから。すみません。改めてここで説明しますと、私のいう「「ありのまま」を肯定する」というのは、「自己肯定」の事ではありません。これも分かりやすくベッチの例で言いますと、自分の身体が毛深い事を認め、且つ自分がその事を嫌がっているという事も認める、という事です。

 この「嫌がっている」という事実を認めたがらない人が案外いるような気がするのです。そういう人はどういった対応をするのか。それは「自分は病気だ」と主張するのです。「嫌だから変えるんじゃない、病気だから治すんだ」という訳です。私はこれは悪い形の自己肯定だと思います。何故なら、他の人々に対して不当に抑圧的だからです。私は「性同一性障害」の人達の主張にはこういった側面があるのでは? と疑ってみたのです。

 最後にまとめの部分、「この文章の全体的に店主氏が、『ヘテロセクシャル』『ゲイ』『性同一性障害(者)』を分けようとしているように感じました。自分とは別物である、と分けようとしているように感じました」という部分についてですが、それはその通りです。

 私は論点をはっきりさせるために、きっちり「ヘテロセクシャル」「ゲイ」「性同一性障害(者)」を分けようとしました。その事に問題がありますか? 私はないと思います。ベッチと私は、人間という点では同じですが、喫茶店の人間と客、といった点では分けて考えています。だからベッチに「コーヒー」と言われたら、「たまには自分でいれろよ」等とは言わずに、いそいそといれて出しますし、その代わりにお金を貰います。いくら私とベッチが仲がよいからといって、この区別を曖昧にする事はないですし、だからといって、こういった区別をする事によって「全てをきめてしまっている」事にはならないと思います。一緒にノーザンソウルで踊っている時は、そんな区別なんかないじゃないか、ベッチ!

 という訳で、返事を書かせてもらいました。では、また。

(店主こと小川顕太郎

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