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2008年08月24日(Sun)

「闇の子供たち」 ☆☆☆☆

Text by Matsuyama

「ペドファイル」と呼ばれ幼児・小児性愛者、または「ペドフィリア」と呼ばれる幼児・小児に対する性的嗜好者たちは、私たちの周辺で普通に生活している。

心に闇を抱えながら家族と共に“幸せに”暮している者もいるだろう。トッド・ソロンズ監督のカルト・ムービー「ハピネス(1998年)」では、そんな小児性愛者に対しても、一人の人間として愛すべきキャラクターとして観た人も多かったようだ。そんなふうに日本でも小児性愛者のような変態や、無関係の人間をも傷つけるような精神分裂者を賞賛するような人間たちが一部のサブカルチャーに存在しているし、そのようなキショクの悪い連中が出入りするショップもある。児童に対する性行為はオトナの世界のレイプやセクハラといった性においての例外ではなく、そこには同意なんてありはしない、いかなる場合でも子供たちの意思など介在していないのである。

梁石日(「月はどっちに出ている」「血と骨」など)原作のこの作品は、あまりの内容の強烈さから映画化不可能といわれていたという。また、現地ロケではマフィアの存在も脅威となり(ドイツのクルーが同テーマの映画を作ろうとタイのロケに挑んだ際、マフィアに銃で襲われたという)、子役に対する様々な配慮にも苦労したということで、制作者側の緊張感もハンパじゃなかったという。

昨年の日本映画界における“本当”の最高傑作、周防正行監督による「それでもボクはやってない」に続く社会派作品「闇の子供たち」は「どついたるねん」で大阪下町模様から出発した阪本順治監督がタイのアンダーグランドに描いた「加害国日本」。欧米白人も含め加害者たちの醜い裸体とキショクの悪さ、品のなさがリアルに映し出されていることに「何の言い訳も許されないぞ!」という告発であると同時に、あまりのセンセーショナルなテーマに、加害者役の白人、日本人は大きなリスクを背負ったであろう。

親からも社会からも見放され売られた子供たちの中には、エイズで弱りきって“使い道がなくなった”子供はゴミ袋に入れられゴミ収集車に投げ込まれたり、健康な子供は生きたまま内蔵を取られ、カネ持ちの病気の子供に移植されるということが描かれている。ドキュメンタリー作品ではないが、どれもが事実なんだろうと思われる。

拝金主義、排他的思想、無自覚な差別意識は余命僅かな重病の我が子を救うため、悪魔の選択を肯定するが、少なくともその選択肢は私には“無い”。子供を救うために最後に捧げられるものといえば自分の命しかない。偽善でもなんでもなく、それが親として、人として正常なのだ。

そんな風にこういう作品はいくらでも表舞台で議論されるべきなのであるが、今の日本映画界は非常に残念なことになっている。

テレビ局主導のくだらない映画ばかりがマスコミを賑わし、意図的にヒットさせ、賞を与え、いかにもそれが一流の国産映画かのように評価されていることにそろそろ気付くべきだと思う。
テレビ局主導のくだらない政治家ばかりがマスコミを賑わし、意図的に支持させ、賞賛を与え、いかにもそれが正義の政治家かのように評価されていることにそろそろ気付くべきだと思う。

政治の話をされると頭がイタいかもしれないが、2005年郵政選挙(第44回衆議院議員総選挙)で竹中平蔵が“テレビ情報を信じる国民”を「国民B層」と定め、徹底的に「国民B層」が「小泉が正しい!」と思い込むよう、全チャンネルを席巻した。だから今でも小泉純一郎は無知なオバサンにばかり人気があるのである。

作品に話を戻す。大手新聞社のバンコク支社で記者を勤める南部浩行を江口洋介が演じる。児童の売買、臓器移植を取材する中、彼の全ての言動を伏線として、その江口洋介でなければ成立しない強烈なラストに私は唖然としたのである。それは取って着けたようなの安っぽいオチと見られるかもしれないが、それまで描かれた全てが、そしてそれを見ていた私たちも、一点の真っ黒な闇ににものすごいスピードで引きずり込まれてゆくような感覚は、誰もが持つ様々な心の闇とリアルに重なるのではないだろうか。また、それは告発フィルムか?映画か?という問いに対してもドッシリと映画然としていることの証にもなっていると私は思う。
同時にそのラストは、宮崎あおい扮する自分探しのボランティア女性に対し、偽善的でイタく感じることを、私自身が持っていないモノへの言い訳に過ぎなかったことを思い知らされた瞬間でもあった。

正直、タイ人キャストの演技のクオリティの高さにギャップを感じてしまったのだが、江口洋介はやっぱり「イイ」と改めて言わせてもらいたい。「あんちゃん」路線から「シリアス」に転向して本当に良かったと思う。映画マニアだけではなく、多くの人にこの映画が持つメッセージ性を伝える役割は十分に果たせているのではないだろうか。

エンディングは桑田佳祐の曲で締められるが、あくまでも主観で言わせてもらうと、どんな曲でも心が無い、バラードでも響いてこない、「勝手にシンドバット」以来、けっきょくヒット第一主義的な作詞作曲を続けてきた、いかにも“賢い”桑田佳祐の曲を起用したことには矛盾を感じたのだが、少しでも多くの人に観て欲しいという点で、これも絶対の手段だったのかと納得したのである。いろんな意味で絶対のオススメなのでございます。

Comments

投稿者 matsuo : 2008年08月31日 00:24

先程、みてまいりました。
江口洋介、すばらしかったです。

投稿者 nisimura : 2008年09月04日 01:06

昨日みてきました。
サザンのエンディング、とっても違和感ありましたよね。
歌詞の内容も合ってるのか合ってないのか、微妙で。
ええ?と思いました。

違和感ということで少々気になることがあったので質問したいのです。
映画、京都シネマで見たんですが、ラストの江口洋介の部屋で妻夫木聡ともう一人の新聞社の同僚が呆然と鏡に映っていたシーンがあって、そのあと3秒ぐらい(?)妙な暗闇の間があり、急にタイ人の子供二人が川で水遊びしているエンディングになりました。その暗闇3秒間がどうしても違和感があって。
も、もしかして、京都シネマの不手際で重要なシーンが見れていないのでは・・。と思ったのですが。そんな間ありました?

投稿者 マツヤマ : 2008年09月04日 19:45

Matsuo様

途中NGO施設で相撲とってた江口の子供好きって…ねぇ。

Nishimura様
そういえば、そんな間があったような。
姉妹の何が奪われたかを描くために闇との対比が必要だったんでしょうね。

投稿者 あおいちゃん大好き : 2008年12月19日 12:33

遅ればせながら、今週の月曜日に観て来ました。
ショックをあまり受けないため、ある程度の
情報を集め、覚悟を決めて観たのですが、
南部の自殺という結末の真相を知ったとき、
それまでの、恐ろしくおぞましいシーンが
ふっとぶほどの衝撃を受けました。
ところどころの南部の表情や言動に?と思わせるものが
あったのですが、そうだったのかあと、なんというか
さらにさらに身体が重くなってしまいました。
 でも、それによって、いろいろなシーンが
この映画が訴える大きな思いテーマであるような
気がしてならないように思えてきました。
 冒頭で、鶏を戦わせて、賭けをしているのか
鶏をけしかけている人々のシーン。それだって、とても
残酷なことである。人間の本質は、いったいなんなのだろう
?と社会の構造そのものが間違っていて、ついに
こんなことにまでなってしまったのではないか?とか
そんなことまで考えてしまいました。
最後の歌は、私にとっては、
そんな気持ちを現実に引き戻してくれる
助けとなっただけで、それについて考えるほどの
余裕は今もありません。
ご感想に同感し、コメントさせていただきました。

南部が花売りの少女を見て、ぼーっとし我に返り
あと、もう一度、首を振って我に返るところがあったと
思うのですが、南部は、そのとき何を見てぼーっと
していたのか、覚えていらっしゃいますか?二度目を
見に行く勇気がなく・・・。

投稿者 Anonymous : 2008年12月27日 00:20

あおいちゃん大好き様、コメントありがとうございます。あおいちゃん大好き少女?少年?または大好きっ子(娘)?など付けば名前っぽくなりますよ。それはいいとして…。

ごめんなさい、花売りっ娘のシーン、なんとなく覚えているのですが、なんとも答えが出ません。それでもすべての映画において、ひとつひとつのシーンと台詞に意味があると思いますから、たぶんそこが気になるのでしたら“あお大”様の頭の中にすでに答えがあると思います。

南部にまつわるラストはそれまでのすべてをフラッシュバックさせて、頭に重要なシーンを焼き付けるための手段として成功だったと思います。

投稿者 マツヤマ : 2008年12月27日 00:22

↑マツヤマのコメントでした。名前入れ忘れました。

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