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Movie Review 2000・12月8日(THU.)

クレイドル・ウィル・ロック

 1937 年大恐慌の時代、ニューディール政策のまっただ中、第二次大戦直前のニューヨークが舞台。

 民主党・ルーズベルト大統領のニューディール政策は、あふれる失業者を何とかせんと公共事業に投資したのだが、それでは下々の労働者階級のふところは潤うものではない、というのは今日の日本の状況を見てもわかる。当時のアメリカも同様で、ニューディールの効果が喧伝されるが、街には失業者があふれ、ストライキなど労働運動は激化。儲かるのは財閥ばかりなり。

 演劇の分野では政府助成による「フェデラル・シアター・プロジェクト」という活動が行われている。失業演劇人を雇って芝居をさせる、というもの。このプロジェクトの一貫として『クレイドル・ウィル・ロック』=「権力の揺りかごはゆさぶられる」という、バリバリ左翼的な演劇を上演することになる。演出は、当時すでにセレブリティであったオーソン・ウェルズだ。この『クレイドル・ウィル・ロック』なる演劇の構想から上演まで、が大きな軸。平行して、メキシコ壁画運動の代表的画家=ディエゴ・リベラがロックフェラーセンターのロビーに巨大壁画を描く顛末、無名の腹話術士の物語などが語られる。

 複数の人物が主人公、お互いが少しづつ関わりを持ちながら物語が進行、またまたロバート・アルトマン風。『ショートカッツ』症候群。

 結局、あまりに左翼的な「フェデラル・シアター・プロジェクト」は「共産主義的・非米的」なものとして弾圧される。一方のリベラも、レーニンの肖像を描いたために壁画を破壊されてしまう。

『インターナショナル』を高らかに歌った後、捨て置かれた腹話術の人形は現代のニューヨークに運ばれる。1937 年を描きながら、これが実は現代の物語であることが示されるのが圧巻、…と言いたいところだが実は脱力。

 ティム・ロビンスは『ボブ・ロバーツ』では選挙の退廃ぶりを、『デッドマン・ウォーキング』では死刑制度の非道さを描いてきた。今回は、「表現の自由」を制限するものを糾弾する。

 より具体的には、アメリカ映画に存在するプロデューサー+映画会社が行う「検閲」への批判だろう。ファイナル・カット=最終編集権を監督が持たない場合、アメリカでは、試写での観客アンケートの結果によって監督の意図したモノが歪められることがよくある。そのため、メジャー製作によるアメリカ映画の多様性はどんどん失われていく。後に最終編集権で苦労するオーソン・ウェルズの、映画界入り以前の姿を描くことによって今日のアメリカ映画の問題点を明らかにしようとするのがおもしろいな。勝手にそう思ってるだけですが。

 しかし、スポンサーなり資金を握っている者が作品の内容に口を出そうとするのは当然の真理/心理だろう。『クレイドル・ウィル・ロック』にしても、リベラにしても、他人に製作資金を出してもらっていながら、好きなモノを好きなように描こうとする方がどうかしている。表現の自由をつらぬこうとするならドキュメンタリー『議事堂を梱包する』のクリスト夫妻のように、企業なり政府なりの資金はいっさい排除するしかない、と思うのだ。どないでっしゃろ。

 と、いうわけで題材はスリリングなれど、もひとつグッと来なかったり。しかし、今日の問題を、1937 年という舞台を借りて描こうとする野心作であり、伝説となっている舞台『クレイドル・ウィル・ロック』、リベラのロックフェラーセンターの壁画の再現ぶりは一見の価値あり。多数の登場人物、さまざまな出来事を 2 時間少々でまとめた手腕は、たいしたものだと感服。技巧に走り過ぎ、とか、妙にインテリ臭いな、と思うところもありますけど。『チャーリーズ・エンジェル』ではアホ過ぎるギャグで脱力させてくれたビル・マーレーの腹話術士が素晴らしいし、色々考えさせられるのでオススメだ。

BABA Original: 2000-Dec-08;

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