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Movie Review 2000・4月26日(WED.)

ザ・ビーチ

 レオ様主演、『トレインスポッティング』のダニー・ボイル監督作。 Internet をながめてみれば、すこぶる評判が悪いが、ボクはとても楽しく、心安らかに見ることができた。同じく評判がメチャクチャ悪い D ・ボイルのアメリカ進出第一作『普通じゃない』もたいそうおもしろく見たので、D ・ボイルとは相性がいいのだ。

 レオ様は、現実逃避(きっと)の手段としてタイへ。そこで流行りの都市伝説と出会う。いわく「とある島に、外部からは隠されている秘密の浜辺がある。マリファナがおおい茂っていてやり放題!」。たまたま島の地図を手に入れたレオ様は、隣の部屋のフランス人カップルを誘って出かけてみたのだが…、という話。

 ネタばれで恐縮だが、その島では約 6 年間、浜辺で遊びほうける阿呆どものコミューンが存在しており、レオ様一行も仲間に加えてもらう。レオ様は、フランス娘をコマしたり、コミューンのリーダーの女性をコマしたり、鮫をやっつけてヒーローになったり、と得意の絶頂を迎えるのだが、身から出たサビで少しづつ歯車が狂い出し、結局「楽園」を破壊し、ほうほうの体で逃げ出すハメになる。

 D ・ボイルの『トレインスポッティング』とも一貫している視点は、「お前ら、若いウチは現実逃避しちゃいがちだけど、そりゃあまあ現実というのは色々気にくわないところもあるけれど、ちゃんと現実と折り合いをつけて地道に生きる方がいいと思うぜ」ということだ。

 この映画は、70 年代的な、「楽園はどこにもなかった」という話ではない。アメリカン・ニューシネマであれば、楽園を求める行為を肯定的に、やむなき行為として描き、やがて、それが失われることを悲しい出来事としたであろう。D ・ボイルの場合は、そもそもの楽園を求めるという心情自体を問題にしているのだ。今日、楽園を求める若者どもは、現実の諸問題がゲームのように簡単にリプレイできないことにイラチを切らしているだけなのだ。現実にたち向かうことなくただ楽園に逃げ込むだけでは、結局楽園を維持していくことすら出来ない。D ・ボイルは、ヒッピー文化やレイブ文化の問題点を突いているのである。

 原作でも言及されているらしいが、映画でも『地獄の黙示録』が一瞬登場。アメリカ海兵隊を離脱しジャングルの奥地に王国を築いたマーロン・ブランドを、マーティン・シーンが暗殺に向かう、というお話であったが、『ザ・ビーチ』も、本人は意識せずともレオ様が南の島のコミューンをぶっ潰しに行くという点で物語の構造は同じ。前半の「楽園」がさして魅力的に描かれていない、のは、楽園は破壊されるべき存在だからなのである。

 レオ様は嘘つきの自己中心野郎として描かれ、それはそのまま D ・ボイル(または原作のアレックス・ガーランド)の若者批判であろう。逃避し続けるだけでは詰まるところは逃げ場を失い、現実を歪曲して自分と周囲にウソついて、あー楽しい、と寝ぼけるしかないのである。

 レオ様のみならず楽園に集う若者どもも、すべて寝ぼけたヤツらとして描かれるが、唯一、映画の中で共感できるクレヴァーな存在は、島で「家族を養うために」大麻を栽培する農民たちだ。農民が言うには「お前ら、適当に遊んでるのはいいけど、これ以上人数を増やしてワシらに迷惑かけたら許さねえべ!」。まあ、楽園を求めて自滅していくのはヤングの勝手であるが、地道な、働くおじさんに迷惑をかけちゃいかんのである。週末の河原町にて改造車を大音量でブンガブンガ言わしてタクシーの運ちゃんに迷惑をかけてるヤツとか。

 レオ様は、アホタレアメリカ人を演じきり、おまけに芋虫を食べたりと、レオ様ファン(確かめたワケではないが、存在しているらしい)の皆様の気分を害するコト必至。わざわざ自らのファンが嫌がりそうな役を演じたのは偉い。

 さて、Internet で一銭にもならぬのにわざわざ映画評を載っけてる方々(あ、ワシか?)も、D ・ボイルが批判するところの現実逃避にいそしんでいる、という面が強いし、閉じたコミュニティが形成されやすい。この映画の Internet 上での評判が悪いのも至極当然。Internet などとは無縁の、現実社会で奮闘する労働者諸君にはオススメだ。

『カップルズ』のヴィルジニー・ドワイヤンがフランス娘を好演。タイトル・デザインは Tomato であるが、どうってことないでした。

BABA Original: 2000-Apr-26;

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