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 Diary 1999・12月15日(WED.)

脳の中の幽霊

 ここ 1 週間程は暇である。今日も全然お客さんがいなく、まったりとした時間を過ごす。

 ミツギちゃんが来店。あいかわらず元気である。チェケヘロさんも来店。なぜかコギャルの話になり、ガングロだのミクロだのコギャル言葉を解説してもらう。しかしこの間マチデくんの家に行った時に、マチデくん達が謎のコンピューター(?)言葉を喋っているのを聞いても思ったのだが、もう若い人達が何を喋っているのか分かりません。

 別にこれはジェネレーションギャップとかいう問題ではない。何故なら私より年上のチェケヘロさんは、どうやら言葉を分かっているらしいからである。では何なのだというと、「世界が違う」んだろうなあ。別にそれで困ったこともないので、構わないんだけど。

 ババさんが最近読んだ本のなかから面白い話をしてくれる。人間は、目から入った視覚情報と脳の中にある記憶=情報・概念を組み合わせて、脳のなかに視覚像を作るらしい。つまり目が悪くて視覚情報が乏しくても勿論ものはよく見えないが、脳の中にためてある情報=教養が乏しくても同様にものはよく「見えない」ということだ。脳のなかがあまりに貧しいと、目の前にあるものも「見えない」ということなのだ。これは例え同じ映画を観たとしても、各人の脳の持つ情報量・教養によってそれぞれ違う映画を観ている、という事を指す。なかなかタイムリーな話題ですな、オイシンくん。

 オイシンの映画レビューによって、ほんとに人はそれぞれ違う映画を観ているんだなあ、と実感させられることしきりだが、今回の『テオレマ』レビューも凄かった。ちょっと頭のよい小学生レベルの読解力だ。いや、例によってけなしているのではなく、ただ驚いているだけだから、気にするなオイシン。

 まあ、映画自体の読解はどうだっていいんだけど、ちょっと気になったことがあるから一言だけ感想を述べておく。オイシンはパゾリーニの映画を「脳を浸食する映画」だとし、このままでは神経をやられるからジャッキーの映画でもみてスカッとしたい、と書いている。つまりパゾリーニ=難解=考えさせられる、ジャッキー=娯楽=考えなくてもよい、と規定しているわけだ。しかしほんとにそうか?

 いや、もちろんこういった考え方は一面の真理をついているし、こう考えている人も多いから別にオイシンが特に考えが足りないというわけでもないのだが、私はこういった考え方には多少ひっかかりを感じる。別に私はパゾリーニを観る時に、そんなにゴチャゴチャ考えながら観ているわけではない。観ている時はひたすら圧倒されている事のほうが多く、見終わった後に色々と考えているのだ。

 同様に私はジャッキーの映画を観ながらでも色々考えている。といっても確かにパゾリーニの映画のほうが多く考えさせられるのは事実だ。しかしこの事が、ただちにジャッキーは娯楽だから考えなくてもよいということにはならない。どういうことか。

 クラカウアーという人の「カリガリからヒットラーへ」という本がある。これはワイマール共和国時代に封切られた娯楽映画・実験映画を分析し、それらの中のファシズムを呼び込む機能を抉りだした古典的作品である。

 オイシンには説明が必要だろうけど、娯楽映画も実験映画もどちらもイデオロギーから遠いとされている点では似たようなものなんだ。つまりどちらもファシズムとかイデオロギーに関することなど考えなくてもよく、ドタバタやアクションや感動や映像の実験などをただひたすら「へええ、面白いじゃん」とかいいながら、「何も考えずに観る」映画だとされているということ。しかしそういった映画の中にこそ、真に恐ろしいイデオロギッシュなものが隠されているというわけだ。

 確かに娯楽映画は「考えないでもいい」ように作られている。基本的に普通の人々はものごとを考えるのが嫌いだからだ。しかし「考えないでもいい」ように映画を作るとはどういうことだろうか? オイシンにジャッキーの映画を観ながら考えてほしい課題だ。

 パゾリーニなんかは意図的に非常に異質なものを突きつけてくるので、思考が活発化されやすい。しかし娯楽映画のように、観客に考えさせないように作られた映画で思考を活発化させるのは難しい。そういった観点からは、娯楽映画のほうが「難しい」ともいえるわけだ。まあ、先程の話にも戻るけど、そもそも脳の中身が乏しかったら、まず映画を観ることさえ出来ないんだけどね。

 またしてもオイシンを教育してしまった。

小川顕太郎 Original:2000-Dec-16;