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2014年08月28日(Thu)

8月19日〜8月26日 etc

掠奪美術館

佐藤亜紀の「掠奪美術館」を手に入れました。これ、ずうっと欲しかったんだよねぇ。絶版なのか、品切れなのか、とにかく手に入らなかったもんだから。
佐藤亜紀が美術に通じてゐるのは、その書いたものからも歴然だけれども、美術作品そのものについて書いてゐる文章はあまり読んだ事がなかった。むろん、“美”については、美男を愛でたり、ブサイクを罵倒したりする形で様々に語ってゐて、それはそれで最高なのだが、やはり美術作品そのものについて語ったものが読んでみたかったのです。私は美術史や美術理論なんかに疎いからねぇ、信頼できる人から、些かの啓発を受ける事ができるならば、と考へた訳です。

で、読んでみますと、快楽への野蛮な意志が横溢した佐藤亜紀の原型の様な文章が並んでゐて、まるで豊潤なワインを舐め、飲み干す様な、陶酔の一歩手前で留まらうとするんだけれど、気がつけば酩酊してる様な、そんな感じで読みながら一気に辿り着いた“あとがき”で、「絵画を前にしては、言葉など何の役にも立たない。故に私も絵そのものを論じようなどと言う無茶はついぞしなかった筈である」といふ文章に突き当たり、あ、さういへば絵画そのものについての論はあまりなかったよなぁ、と思ひ至りました。
つまり、相変はらず、美男を愛でたり、ブサイクを罵倒したりしてる訳です。うーむ、なるほど。これでいいのか。むろん、これでいいのだ。

佐藤健問題

先日「るろうに剣心<京都大火編>」を観に行って、おー、面白い!これならハリウッドにも香港映画にも負けてないよー、と盛り上がったのですが、その時にトモコが、「佐藤健、誰かに似てる。そっくりの表情をする人が思ひ浮かぶ」と言ひ出し、誰それ?と訊ねれば、「うーん、なんとなく顔は浮かぶけど、名前は分からない。多分、トレンディー俳優だと思ふ」との事で、二人で散々頭を絞ったのだけれど、我々はトレンディー俳優とか全く分からないので、ちっとも埒があかず、しゃーないのでネットで検索してみました。「トレンディー俳優」と入れて、検索。
すると、トレンディー俳優ベスト10、みたいなページが出て来て、その中に名前が・・・「あ、これこれ、この人。唐沢寿明!」。
ええー!唐沢寿明ー!
・・・しかし、確かに、パンフレットに載ってる佐藤健のいくつかの写真は、驚くほど唐沢寿明に似てゐます。顔の形といふより、やはり作ってゐる表情が似てる。
そこでそれをヤマネくんに言ふと、「えー、似てますかー?世間的には、佐藤健は三浦翔平とか桐山漣とかに似てると言はれてゐるんですよー。ほら」と、二人の写真を見せてくれました。
・・・むむむ、いや、これは、単に今時の若者ってだけでは・・・、うーむ、なんていふか、形の問題ではなく、表情の問題、動きの問題なんだよ。凄く表情が似てるの、唐沢寿明と。だから、若き唐沢寿明が、剣心をやってる様にみえたりもするんだよ、パンフとかみると。
「えー、納得できないですねー」
ううむ、さうか。ぢゃ、今度公開される「イン・ザ・ヒーロ」といふ映画を観にいかうぢゃないか。これは唐沢寿明主演。しかも、唐沢寿明はスタントマンの役で、忍者の扮装をして技斗をするといふんだから、剣心との比較もばっちりだ。
「さうですね!・・・って、なんでそんな事のために、大切な時間とお金を使はなくちゃならないんですか!ただでさへ、9月は観たい映画たくさんなのに!」
ま、確かにね。

AIR

アニメ「AIR」を観ました。これは東浩紀や宇野常寛なんかが重大作として取り上げ、思想業界で論争まで巻き起こした美少女ゲームのアニメ化作品です。アニメやゲームに全く興味のなかった私でも、名前くらゐは知ってゐた有名作です。
・・・・さて、まづ、これ、少女たちの絵が異様です。私、初めて「まどマギ」を観ようとした時に、こんな萌え絵に耐へられるだらうか・・・と心配したものですが、今となってはそれは勘違ひであると分かりました。「まどマギ」の絵は、確かに眼は大きいですが、萌え絵(といふ言葉があるのかどうか。まぁ、オタクの方々の愛好しさうな絵、といふか)ではありません。むしろ、少女マンガの系譜上にある、眼の大きな少女の絵、です。今では完全に了解可能。
対して、「シャナ」や「エルフェンリート」なんかの絵は、萌え絵と言っていいでせう。明らかにバランスを失してゐる。未だに了解不可能。が、それでもまだ、これらの作品は絵が拙い分、ましだったのです。異様さが中和される、といふか。
しかし、この「AIR」は、絵がきれい・・・といふか、CGでも使ってゐるのか、くっきりはっきりした絵で、この絵柄でこんなでかい眼を描かれると、もう人間には見えません。妖怪か、宇宙人か。とにかく気持ちが悪く、違和感が拭へない・・・。
ま、それはいいとして、肝心のお話ですが、これがまた、とっちらかり過ぎといふか、まとまりを欠いたズルズルのものです。私は、もとのゲームがどんなものか知りませんが、推察するに、ゲームをアニメ化するのに失敗したのでは・・・としか思へません。それほど、一貫性もなければ、まとまりもない。
一応、この物語の構図は、ある街にやってきた国崎行人といふ青年が、悩みや苦しみを抱へた妖怪・・・ではなく少女たちに次々と出会ひ、それらの少女たちを救ってやる、といふものです。まぁ、ここらがゲームなんでせう。
ところが、ラスボスといふか本命である少女が居るのですが、この少女・観鈴をいざ救ふぞ!といふ段になって、行人はいきなりカラスになってしまふのです!そして、少女の周りでカーカー言ってるだけ。で、少女はそのまま衰弱して死んでしまふ・・・なんぢゃそりゃ?
その直前に、行人(の血族)と観鈴(に転生した魂)の1000年に渡る因縁が描かれ、行人は観鈴(に転生した魂)を救ふために、1000年に渡って法術を伝へてきた家系である事が明かされます。で、さぁ、法術を使って(?)観鈴を救ふぞ!となった所で、カラスになる。そしてカーカー。
・・・うーん、あまりにこの尻切れとんぼといふか、必然性のない展開は変過ぎる。もしかして・・・とちょっと調べてみたら、やはりこの展開はゲームをなぞったものでした。
実はこの展開故に、このゲームは名作とされ、論争の的にもなってきた様なのです。要するに、美少女ゲームといふのは、プレイヤーが次々に女の子たちをモノにしていくといふ、プレイヤーの全能感を満足させるものらしいのですが、このゲームではラストでいきなりカラスになって何もできなくなり、眼の前で衰弱して死んでいく少女をただ見つめる事しかできない・・・といふ状況に追ひ込む事によって、プレイヤーの自己満足を撃ち、不能感を感じさせる、と。そこが革新的であり、美少女ゲームそのものへの批評性を備へた名作である、といふ事らしい。
ふーん。
ま、それはそれでいいですよ。私はゲームをしないから、そこらはよく分かりません。ゲームの世界では、革新的だったんでせう。
でも、ことアニメになれば話は違ふ。そもそもアニメでは、行人がカラスにならうが、なるまいが、“ただ見つめる事しかできない”といふ事態に変はりはないでせう。アニメって、ただ観るもんだから。それに、かういった3人称の視点で作られたアニメは、誰か特定の人のみに感情移入してみるものではない。いや、たまにさういった見方をしてゐる人がゐますが、それは“正しい”見方ではない。だから、観てゐる人は、行人に感情移入して観る訳ではないので、行人がカラスになったからといって無力感など感じる訳もなく、「行人、なにやってんねん!」と呆れ、突っ込むのがせいぜいではないでせうか。
つまり、行人がカラスになる展開を、アニメ化に際して踏襲する必然性が全く感じられない。
うーむ、やっぱゲームのアニメ化に失敗した作品としか思へないなぁ。

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