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2013年05月12日(Sun)

アートとしての映画の復権 映画

アートとは何だらうか。今なら、自己を表現するもの・・・と答へる人が多い様な気がする。が、私の場合ははっきりしてゐて、それは“聖なるものを召還するもの/こと”の事です。間違っても、自己を表現するものではない。
んで、映画の事なんだけど、映画にも色々あって、でもそれを大きく分けると、俗なる側面(娯楽)と聖なる側面(アート)があると思ふ訳ですが、もちろん、私が興味を惹かれるのは、アートとしての映画です。(アート系の映画ではありません)
先日、たまたま続けて観た関係のない2本の映画が、どちらも優れたアートとしての映画で、しかもなんか深い所で共鳴し合ってゐる様に感じたので、その事を書いてみたいと思ひます。
その2本とは、ベルトルッチの初期作品「分身」と、レオス・カラックス13年ぶりの新作「ホーリーモーターズ」です。

「分身」は日本未公開の作品で、ソフト化もされてをらず、今回の上映がかなり話題になってゐた1本です。個人的には、大好きなピエール・クレマンティが最初から最後まで出ずっぱりで、しかも「分身」だから二人も出て来て、ずーっとなんやかんややってゐるピエール・クレマンティ祭りの映画だったので至福の一時を過ごした訳ですが、映画としては典型的なアートとしての映画でした。
アルトーを引用したり、写真を貼ったりしてゐるので分かりやすいのですが、映画といふ枠を超えて、現実世界/観客へと働きかけようといふ意志に満ちた映画。聖なるものを招喚し、この俗世へと解き放つ。時代のせゐもあるでせうが、とても初々しく、魔術的な映画でした。
この映画が作られた1968年は、革命の機運が高まり、現実世界への働きかけとその結果としての変容が比較的容易に思はれた時代だったので、この様に些か楽天的な、青臭い映画が撮られたのでせう。

これに対して「ホーリーモーターズ」は、同じ様に聖なるものを招喚し、それを映画といふ枠を超えて現実世界へと解き放つ魔術的意志に満ちた映画なのですが、その裏にべったりと、絶望感と疲労感が貼り付いてゐます。ちっとも、楽天的ではない。これが、今や“聖なるもの”に対する感覚も希求も全く失はれた現代といふ時代のなせる業だといふのは明らかでせう。働きかけても、答へるものがゐない。
13年間の沈黙の間、カラックスは考へに考へたのだと思ひます(「TOKYO!」でのメルド氏が今回の映画に出てゐる事からも、思考が継続し続けてゐた事が分かるでせう)。この俗なるものがほぼ100%勝利した世界で、どの様にしたら聖なるものを招喚できるのか。どの様にしたら、映画的魔術を発揮できるのか。
カラックスがとった戦略は、基本的に俗なるものを前面に押し出しつつ、そこでドニ・ラヴァンに「でも、やるんだよ」と、やらせる事です。そこでドニ・ラヴァンのやってゐる事といふのが・・・ま、これは観てのお楽しみ。体験しなければ分かりません。魔術なんだから。

一緒にこれらの映画を観たトモコによると、「ホーリーモーターズ」はホドロフスキーの「ホーリーマウンテン」と響き合ってゐる、との事です。確かにどちらも「H M」ですし、監督自身が出て映画そのものの枠付けをしてゐる点も一緒、出演者がやってゐるのも神秘劇・・・と同じです。なるほど。
さういへば、ホドロフスキーも途中で映画を撮るのはやめ、サイコマジックといふより実際・直接的な手法に変へ、現実世界へと働きかけてゐた訳ですが、その彼も最近「リアリズムのダンス」といふ自伝を出し、それの映画化!といふ形で映画の世界に戻って来るとのこと。もう撮り終はってるらしいので、是非、是非、一刻も早く日本で公開してほしい。

もしかして、このドン詰まりの世界で、聖なるものの復権が可能になるのかもしれません。アベノミクスなんかよりも、ずっとその方が私には気になってゐます。

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