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2012年05月08日(Tue)

桂川連理柵 ウノピョン

GWだっつーので、ウノピがやってきた。
ウノピがやってくると、まぁ、話題はいつも歌舞伎、文楽、音楽、筋トレ、倫理、道徳、社会、地理、数学・・・といった所になるのだけれど(幾分、誇張あり)、今回はお互ひ、4月の文楽公演に行ったばかりだったので、自然話題は文楽の事となったのであった。

ところで、私はウノピと文楽の話をすると、いっつも激しいズレを感じるんだよねー。・・・って、よく考へたら、何の話をしても、ウノピとはズレを感じるんだった。
まぁ、それはとにかく、今回の文楽、話題は当然のごとく「桂川連理柵」になったのだけれど、それは無論、蓑助、文雀、勘十郎に住大夫と、メンツが凄いからで、だから当然ウノピは「誰それの藝が良かった〜云々」といった話しになるのだが、私はそれ以前に、もの凄ーくこのお話に納得してゐないのである。

大体、この主役の長右衛門といふ奴、どえらく最低な奴で、観てゐて腹が立って仕方がない!と私が言へば、「そんな、文楽に出て来る男なんて、みんな最低な奴ぢゃないですか」などと、ウノピは答へる。
それは大雑把すぎるだらう。例へば与兵衞や忠兵衛とか、最低な奴かもしれないけれど、可愛気があるし、納得して観られる。が、この長右衛門は全くさういふ所がないやん!
「はぁ、例へば、どんな所が腹が立ったんですか?」
長右衛門が継母に理不尽なイチャモンをつけられて、苛められる所があるだらう。それを長右衛門の嫁のお絹が見かねて、継母に反撃しようとするんだけれど、なんと長右衛門はこの時、継母の側に立って「親にそんな口をきくもんぢゃない」とか言って、お絹を諌めるの!なんだそれはー!と凄く腹が立った。
「えー、ボクはあそこではちっとも腹が立ちませんでしたよ!だって、長右衛門は帯屋の跡取りとして養子に入った人間ですよ。丁稚根性が染み付いてるんですよ。親に逆らうなんて、あり得ないですよ」などと、ウノピは答へるのである。
をかしい。全くもって、納得できない。

今までにも何度か似た様なやり取りはあったので、その経験から、ウノピが言ひたい事は分からないでもありません。要は、この芝居の時代の日本は封建道徳が生きてゐて、それは現代の道徳と違ふものなのだから、その道徳に囚はれた人を、現代の価値観で批判するのはをかしい、といふものでせう。
私の考へ、感じ方はこれとはちょっとずれてゐます。
確かに様々な時代、様々な地域で、異なった道徳や考へ方、感じ方はあるでせう。文楽や歌舞伎は江戸時代に成立したものなので、その当時の道徳感が根底にありますし、それに違和感を覚える事も多々ありますが、私はそんな事を非難してゐるのではありません。仮令どんな道徳、思想があらうとも、それらを超えて普遍的なものはあるだらうし、また、さう仮定しなくては、相対主義・ニヒリズムの泥沼に落ちてしまふだらうと思ふのですが、長右衛門にはその“普遍的なあるもの”がちっともないのです。故に、自分の生きた時代の道徳に、無自覚に媚びてしまってゐる。
私が唾棄すべきと考へてゐるのは、いかなる時代・地域であらうと、その時代・地域にメジャーな道徳に無自覚・安易に乗っかって、他を抑圧する人間です。
お絹とて、むろんこの時代の道徳に沿って生きてゐるし、故に普段は継母やその連れ子の儀兵衞の嫌がらせにもじっと耐えてゐます。が、あまりに酷い時は、それに抗して立ち上がる。これは当然の事、といふか、あるべき姿です。どの様な道徳・思想であらうと完璧なものはないので、抑圧的な所はあります。それが酷い時には立ちあがる。これは正しい姿でせう。ところが、必ずさうなったら、メジャーな道徳や思想に乗っかって、これをさらに抑圧にかかる人間がゐるのです(もしかしたら、本人はその場を収めようと考へてゐるだけかもしれませんが)。かういった手合ひこそ、最低の人間です。長右衛門、お前だよ!。

大体この長右衛門といふ男、出来心から13歳の少女を犯し、孕ませてしまってオタオタと慌て、最後には周りの迷惑を一切省みずにこの少女と心中する・・・といふどうしようもない人間です。要するに、常に強いものに靡いてゐる。自らの核となるものが、全くない。性欲に負け、時代の道徳に媚びを売り、自らの情動に流される。うーん、最低だ。

私のマスコミ嫌いも、ここに由来するものが大きいです。マスコミは、常に時代の道徳に乗っかって、それから外れたものを威丈高に糾弾します。そして、正義面をしてゐやがる。全くもって、度し難い。テレビや新聞をみると、その下劣さに気分が悪くなるので、私は絶対に見ないのです。

てな事をウノピに言ってゐると、「それなら次の日記はこの事を書いて下さいよ」とか言ふので、書いてみました。

いや、久しぶりに日記書くと、疲れるわ。

Comments

投稿者 uno : 2012年05月11日 00:23

「帯屋の段」ないし長右衛門について考えました。
ええとこない。。。
薄っぺらい建前だけで生きてる。
与兵衛は金が欲しい、忠兵衛は梅川を身請けしたい、という欲があるけれど、長右衛門には欲すら感じない。薄い。
お半を孕ませたのも、なんとなく出来心で。
でも、この「帯屋の段」を聞いていて腹が立たなかった。
えげつないやっちゃ、とは思いましたよ。
嶋大夫、住大夫の語りがストンと入って来た。
太夫の語りを音楽のように聞いているのかも知れない。自分でもよく分かりません。

住大夫が著書「文楽のこころを語る」で「帯屋の段」について話してます。
「作品がよくないので、<六角堂の段>や<帯屋>の前半では、当時の大夫さんが入れごとをしたり、アドリブで語ったりしました。」
「大夫が入れごとをしたり、アドリブで語ったりするということは、それだけ作品が悪い証拠です。手を入れておもしろおかしく笑わせる。そうやって、芝居としておもしろい筋立てにした作品です。」
あと「文楽らしい演目です」とも言っています。
引用ばかりで申し訳ない。

私が思うのは「帯屋の段」は昔の大阪人にとっての昼ドラ(ソープオペラ)みたいなもんやったんちゃうかなと。
ケンタロウさんが特に腹を立てた長右衛門が、継母に反撃するお絹を諫めるところ、ここでは
「道理じや。コリヤ親ぢやわやい。親といふ字で何事も、虫を死なす胸の中。思ひ遣つてくれ、女房」と拳を握り男泣き
と言ってるんです。建前でしょうが。
でも、浄瑠璃臭いと思いませんか?

この演目、文楽では上演回数が多いのですが、歌舞伎では実に少ない。
一番最近でも2000年2月歌舞伎座で吉右衛門の長右衛門、雀右衛門のお絹です。
人気が無いのは想像できます。

ズレてるなあ。

投稿者 元店主 : 2012年05月12日 02:25

でもこれって、戦前では知らない人がないくらゐ有名、といふ事は人気のあった演目なんだろ?ウノピの好きな落語でも、「胴乱の幸助」といふのがあるくらゐぢゃないか。みんな好きなんぢゃないの?
歌舞伎で上演が少ないのは、やっぱ人間でやるのが難しいからぢゃない。お半、14歳だし。

いや、さ、確かにこれ、ソープオペラみたいなもんだと思ふよ。みんな好きぢゃない、昼ドラ。私は、大ッ嫌いだから。
あと、私は自分が敵と看做した人間にはセンサーが働くから。ちょっと過剰に反応してしまふのかも。その時代・地域の道徳に無自覚に加担して他を抑圧する奴、は、私の敵です。

私がウノピにききたいのは、“浄瑠璃臭い”とはどういふ事か?といふこと。住大夫のいふ“文楽らしい”でもいい。私は、どーもよく分からんのだよね、これが。言葉にはしづらいかもしれないけれど、良かったら説明してくれませんか。

投稿者 uno : 2012年05月14日 00:14

「帯屋の段」は文楽での上演回数は多いですが、歌舞伎では少ない。
人気が無いと言ったのは、歌舞伎においてです。
理由として考えられるのが、動きが少なく役者の見せ所が無いからではないかと考えています。
その上、酷い話ですし。
人間が演じたら生々しくてお客も暗い気持ちになるでしょう。

”浄瑠璃臭い”について。
住大夫は帯屋の段を「渋い演目」だと言ってます。
「『近松もの近松もの』というても、文章は近松門左衛門ですが、文楽では『曾根崎心中』、『女殺油地獄』、みな新作です」
上記2演目は歌舞伎からの逆輸入で、現代人に合うように作られたと言っているのではないでしょうか。
そこで「渋い演目」についてなのですが、住大夫は三味線について以下のように言っています。
「渋い演目は上手に鮮やかに弾いてはあきまへん。大阪弁で「もっさり」弾く。東京弁でいうたら「かっこつけない」ということでっしゃろな。粋に弾いてはあきまへん。そこに「芸」のむつかしさがおまんねん(以下略)」(帯屋の段)
「渋い」をここでは「文楽らしい」と置き換えてもいいのではないでしょうか。

私の言う”浄瑠璃臭い”と住大夫の言う”渋い”はかなり近いと思っています。
音楽でいうところの"ヘタウマ"がそれに相当するのではないかと。
技術はあるが流麗とは対局にある。
例えばザ・バンドのロビー・ロバートソン。
黒人ならばコーネル・デュプリー。
多分にブルース・フィーリングと関係します。

追加として、今のところ"浄瑠璃臭い"に理由を付けるなら、物語の筋の他に詞を飾り付けて、耳に心地よい音(音楽と言っても良い)に作者が作っている、という印象を受けています。
床本を見て下さい。
帯屋の段の筋はしょうもない。でも耳には心地良いですから。

以上が私の思う"浄瑠璃臭い"に関する説明です。

投稿者 元店主 : 2012年05月14日 09:59

なるほど。
しかし、やっぱよく分からない所があるぞ。

ウノピは「へたうま」や「ブルースフィーリング」を持ち出して、「浄瑠璃臭い」に対する説明にしてゐるが、これって演者のニュアンスの問題ぢゃないの?だったら、私が怒った場面の詞「道理ぢゃ。コリヤ親・・・」を引用して、これって浄瑠璃臭くないですか?というのは変ぢゃないか?例へば、ここに誰かの太夫の音源が貼ってあって、それを聞かせて「これって浄瑠璃臭くないですか?」とか言ふんなら、まだ分かるんだけど。

それよりは、追加としての説明の方が分かる。つまり、下らない話を耳に心地よい詞を飾り付けて魅力的にみせようとしてゐるのが「浄瑠璃臭い」と。これ、分からないでもない。でも、微妙だと思ふんだよね。
痴呆的な世界を、藝の力で一気に高みに持っていくのが文楽の魅力、といふのは、まぁ、正しいんだらうね。私もさうは思ふ。が、やはりここには危険もあって、その劇世界が提示する世界観や思想、みたいなものを無視して、各演者の藝の高低・深浅・巧拙ばかりを云々する、通人を生んでしまふと思ふんだ。通人・趣味人・業界人といふのは、私の唾棄すべき三大人だからね。人間、かうなったら終しまひだと思ってゐます。

いや、別にウノピが通人だと言ってゐる訳ではないよ。ただ、その傾向はあるよね。そこが、私とのズレ・齟齬の一番の要素ではないか、と。

むろん、ウノピ側からも「ケンタロウさん、まだ義太夫の真の魅力が分かってないんですよ」といふ反論はあるかもしれない。そして、まぁ、それはさうかもしれない、とも思ふ。少なくとも、私なんかよりよっぽどウノピの方が、義太夫は分かってるよね。

ただ、ウノピはどーも世界観の捉へ方が甘い様な気がするんだなー。

しかし、まぁ、このお互ひのズレは結構重要だと思ふんで、そこらをしっかり踏まへながら、これからも文楽を見て(ウノピは聴いて、か)いきませう。

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