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2010年01月19日(Tue)

かいじゅうたちのいるところ 映画

MOVIXで「かいじゅうたちのいるところ」を観ました。

なんといふか、これは、「白い!」。といふか、「ロックっぽい!」映画やなー、といふのが第一印象です。
凶暴さとナイーブさの乱暴な混交、神経質的な線の細さ、ざらついた感触+ウエットさ、なんかが、凄ーく、ロック的。白い。おまけに、ダニエル・ジョンストンのカバーまでやってるし。

かういった感覚は、私的には「懐かしいなー」と遠くを見つめながら胸の奥を僅かに刺すもの、同時に気恥ずかしさと“自分には関係ないや”的な無感動をも引き起こすものです。うーむ、微妙だ。微妙すぎる。

別に嫌ひな訳ではありません。面白くない訳でもない。かういふ映画がある、といふ事自体は面白いとは思ひます。が、しかし・・・。

さきほど、白い=ロック的、と書きましたが、考へてみればこれは正確ではない。当然の事ながら、ロックは(主に)ブラックミュージックから生まれてゐます。その出自には黒さがある。ブルースをその黒さの極北に置けば、そのズーッと行った反対側に、真っ白なロックがある。で、この映画はその「真っ白なロック」やなー、と感じた訳なんですが、それではこの黒さと白さの違ひとは何なのでせうか。
私はこの映画を観てゐて、ひとつの答へを得ました。それは、“黒さ”とは“あらかじめ死んでゐること”であり、“白さ”とは“死の回避”だ、といふ事です。

私がこの映画を観てゐて最も居心地悪く感じたのは、“かいじゅうたちのいるところ=島”で、死が回避されてゐる事です。なんで、MAXは死なないのか?それどころか、怪我ひとつしないのか?むろん、MAXが“かいじゅうたち”に食べられない、といふのはこの話の肝ではあるでせう。しかし、食べられること、と、死ぬこと、は別の問題です。もっと言へば、MAXが食べられなかったのは死を回避するためではなかったか、とも思へるのです。

MAXは断然死ぬべきでした。それでなければわざわざ“かいじゅうたちのいるところ=島”に行った意味がない。MAXが死ねば映画が終はってしまふぢゃないか!などといふのはナンセンスです。“黒さ”とは“あらかじめ死んでゐること”。もしそこが黒い領域なら、“死”は終はりを意味しません。黒い領域とは魂の領域のことです。“かいじゅうたちのいるところ=島”には黒さが全くない。魂や根源的なもの、が全く感じられないのです。
敢て印象を述べるなら、そこは魂の領域ではなく、脳の領域です。マルコビッチの穴、といふか、脳内ニューヨーク、といふか。もしかして、MAX は精神分析医の病室に飛び込んでしまったのかもしれません。

魂の浄化を行ふのに、クスリでブレインウォッシュするだけ、といふ、身体性の欠如した白いドラッグカルチャーをそこに感じた、と言へば、些か強引でせうか。

とか何とか言ひながら、涙をボロボロ零して観てゐた自分が不気味ではあるのですが・・・・・・。

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