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2007年06月04日(Mon)

バベル 映画

 MOVIXで『バベル』(アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督)を観ました。

 この映画、かなり賛否両論分かれてゐる様で、ッて、私の周りでは「否」の方が多いですが、「賛」はババさんによる、「どこかのミニシアターにフラリと入つて、何も知らずにたまたま観たのがこの映画だつた、と思へば、なかなか面白い。映像もカッコいいし。」といふ説くらゐです。

 なるほど。確かに、いまひとつ掴み所に欠ける映画ではありました。でも、なんとはなしに心に引ッ掛かりのできる映画でしたので、ここはひとつ“深読み”をしてみようと思ひます。(あ、むろんネタバレあり、ですよ)

 まづ、誰でも考へるのが、題名の『バベル』ですよね。バベル、とは、旧約聖書に出て来る“バベルの塔”の事であり、人々が神の怒りに触れて言葉をバラバラにされ意思疎通ができなくなつた、といふこの故事を踏まへ、この映画では意思疎通のできない現代人の姿を描いてゐる、と、一般的にはされてゐます。んで、宣伝文句も「届け、心」なんですね。

 しかし、まー、こんな見方は下の下の下。最もつまらない見方でせう。映画を観る時は、絶対に宣伝文句通りに観てはいけない、といふ鉄則があります。だから、もう少し違ふ見方をしてみませう。

 まづ、この映画の主人公は誰か、と考へてみませう。普通に考へれば、群像劇なんで主人公は居ない、あるいはブラッド・ピットを始め数人がみな主人公、といふ事になるでせう。しかし私が思ふに、この映画の主人公は、菊地凛子演じるチエコなんですね。何故なのか。

 バベル、とは、バビロンの事でもあります。そしてバビロンとは、汚辱と悪徳に満ちた腐つた大都会、の象徴です。この映画は、バビロンについての映画ではないか。そして、そのバビロンを象徴するのが、現代のバビロン東京に住む、言葉を奪はれた存在であるチエコなのではないか。

 彼女は文字通り、言葉を奪はれてゐます(聾(唖)者)。そして、自らの性欲を持て余しながら、東京を彷徨します。…たつたそれだけの事で彼女がバビロンの象徴なの? と思はれる方も居るでせう。もちろん、それだけではありません。彼女は自分の母親を殺してゐます。確かに、映画の中では母親は拳銃自殺をし、それを最初に発見したのがチエコ、となつてゐますが、違ひますね。彼女が殺したのです。多分、彼女は自分の父親と寝たかつた。あるいは、自らの性欲を全開にしたかつた。それを抑圧してゐたのが母親だつたのでせう。だから殺した。しかし父親は自分と寝てくれない。これが、彼女を不機嫌にさせてゐます。

 さらに、彼女の家からモロッコに渡つた拳銃が、事件を起こし、それがこの映画で描かれる様々な不幸の元になつてゐます。それは、この拳銃がバビロンから来たから、呪はれてゐたからです(さうでないと、あんな変な事故、普通起きないでせう)。彼女こそ、災厄の種、バビロンそのもの、つまりこの映画の主人公なのです。

 とはいへですねー、チエコ、そんなに悪い奴に見えますか? 大淫婦バビロン、みたいに見えますか? 見えないですよね。さう、そしてこの事が、この映画の肝ではないかと思ふ訳です。

 現代はテロ戦争の時代です。明確な、滅ぼし尽くさなければならない“悪”が存在するとされ、それに対する戦ひが“正義”の名の下で推奨される。そんな時代です。そんな時代に対して、そんな絶対的な悪なんて存在するのか、悪なんて云つても大したことないのではないか、それは誤解と行き違ひと一寸した人間の欲望、それらから生まれる悲しいものではないのか、と突きつける。見よ! ここに描かれたバビロンを、各人にとつては切実で悲痛かもしれないが、全体から見れば大したことないだらう。といふ事実を、正に“大したことない”映画として描いてみせた…と書けば、皮肉ととられるでせうか?

 いやしかし、この映画は絶対に現在も進行中のイラク戦争、といふかアメリカによるイラク侵攻(日本も片棒を担ぎ中)に対する批判が含まれてゐると思ふんですけどねー。だつて、(国名としての)バビロンとは今のイラクのことですし。

 チエコの“ノーパン御開帳”は、ブリトニー・スピアーズのパロディかな? と、いま一瞬思ひました。

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