京都三条 カフェ・オパール Cafe Opal:Home

Home > Diary > 04 > 0318
 Diary 2004・3月18日(THU.)

ドッグヴィル

 京極弥生座にて『ドッグヴィル』(ラース・フォン・トリアー監督)を観る。私はラース・フォン・トリアー監督の前作『ダンサー・イン・ザ・ダーク』があまり好きでなかつた事から、この作品にもさして興味があつた訳ではないのだが、ババさんがバチグンのオススメをしてゐるといふ事を人づてに聞き、それなら観に行つてみようと卒然と思ひ立つた訳で、おかげでニコール・キッドマンが出てゐるといふこと以外、どういふ話なのか全く分からないままに観に行く、といふ最も望ましい形をとる事ができた。私もババさん同様、事前に観る映画について何か情報をいれるのが極端にイヤなのだ。17 時 20 分の上映に間に合ふやうに弥生座にかけつけ、さてチケットを買おうとフッと見ると、『ドッグヴィル』のポスターが貼つてあつた。そこに一文だけ文字が「美しき***、ひとつの町が***」と書いてあるのが目に入つてくる。ちなみに、この「***」の部分は私が自粛したのである。何故なら、私はこの文章を読んだ瞬間に、この映画の筋が全て分かつてしまつたのだ! ガーン!

 もちろん、確信まで持つた訳ではない。が、もしかして、かういふ話なんぢやないのか? といふ疑惑は念頭を離れず、そして、実際、私が想像したのとほとんど寸分違はぬ話であつたのだ、『ドッグヴィル』は! うーむ、ポスターにやられてしまつた。私はポスター制作者を憎んだ。もともと単純なストーリーなのに、なぜそれをポスターに書き込むのか。もうちよつと頭は使へないのか、と。

 この映画は、序章と九つの章から出来上がつてゐるのだが、私は 8 章まで些か白け、少々退屈しながら観てゐた。むろん、筋が分かつてゐたとしても楽しめる映画はある。ところが、この映画は(私にとつて)さうではなかつた。ドッグヴィルといふ田舎町に住む人々の偽善・利己主義・陋劣が延々と描かれるのだが、これは前作の『ダンサー・イン・ザ・ダーク』でも感じた事だけれども、それらを描く監督の悪意が私には幼稚過ぎるやうに思へて、楽しめないのだ。ニコール・キッドマンの好演に支へられて(ニコール・キッドマンは良かつた!)、なんとか観ることはできたのだけれど、やはり浅薄な批判精神は見てゐてつらい、といふか。

 ところが、最終章、第 9 章にて、事態は一変する。意外なストーリー展開をしたといふ訳ではない。話は、私がポスターを見た瞬間に悟つたのとほぼ同じやうに展開し、終はつた。では、何が違ふのかと言ふと、最後にある哲学的(?)な会話が交はされるのだが、これによつて映画の様相が一変するのだ。それによつて、それまで描かれてきた「ドッグヴィルといふ田舎町の人々の偽善性に対する批判」が、実はそれほど重要ではなかつた、といふ事が判明するのだ! もつと、他のことが描かれてゐたのである。そのことが、月の光がさしてきてドッグヴィルの様相がニコール・キッドマンの目に一変するやうに、私の目に一変して露はになつたのだ。私は、チョット感動した。そこから最後までは一気である。爽快感(?)とともに駆け抜けた。そして話が終わった後、エンドロールといふのか、制作者たちの名前が流れるところ、そこがまた良かつた。たぶん、この映画の白眉だらう。私は大いに満足して映画館を出た。昨日は暑かつたのに、今日はまたしても冷えこんでゐる。ほんとに今年の桜は早いのだらうか。

小川顕太郎 Original: 2004-Mar-20;