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 Diary 2004・3月4日(THU.)

波止場

 ビデオで『波止場』('54)を観る。この映画は、主演のマーロン・ブランドの出世作になつたこと、レナード・バーンスタインが手掛けた唯一の映画音楽作品であること、カメラマンのボリス・カウフマンがアメリカ映画史に登場したこと、監督のエリア・カザンの「赤狩り・転向・裏切り」に対する弁明になつてゐると言はれてゐること、など、話題満載の映画である。が、今日はさういふ事は置いておいて、登場人物である神父に対する違和感について書きたいと思ふ。

 この映画は、波止場を仕切り労働者から搾取を繰り返すギャング団に対して、ついに身内であるマーロン・ブランドがその不正を告発するために立ち上がる、といつたストーリーの作品である。で、そこに神父が登場するのだが、この神父が、報復を恐れてギャング団の不正に対して口を閉ざす労働者たちに対して、身を賭してでも不正を告発しろ! と煽りまくるのだ。そして実際、その言葉に従つたものは殺されたりする。この神父の言つてゐることは、非常にキリスト教的だと思ふ。「汚れた魂のままで生きるのは、意味がない!」とか、ギャングのボスの片腕をしてゐる兄の身を気遣ふマーロン・ブランドに対して、「兄弟は他にもゐる、虐げられてゐる人々こそ兄弟だ!」とか。それらのセリフは聖書の中のキリストの言葉を想起させるし、といふ事は、これがキリスト教的な考へ、といふ事なのだらう。しかし、それにしても、これらの言葉は私には、非常に身勝手で独善的に響く。まァ、私は「直きことその中にあり」の儒教的な考へをよしとするので、このやうな「正義」のためなら人情を捨てろ、的な考へに納得がいかないのは当たり前かもしれない。でも、アメリカ人たちはどうなのだらうか。この映画を観て、神父のことをどう思つたのだらうか。立派な態度だ、と思ふのだらうか。

 こんな事を思つたのは、映画『ミスティック・リバー』がアメリカで受けてゐる、といふ話を聞いたからである。あの映画では、ショーン・ペンの奥さんの在り方に象徴されてゐたやうに、抽象的な正義や真実よりは、人情と秩序を選ぶ、といふ考へが示されてゐた。これは、『波止場』での神父の考へと対立するものではないだらうか。しかし考へてみれば、抽象的な正義を疑ふ、そして人間の暗部を必要悪として認めるイーストウッドの映画は、昔から(70年代頃から)アメリカで支持を集めてゐたのであつた。では、時代的な問題だらうか。それとも、今に至るまでズウッと、アメリカではこの二つの考へが併存・対立・闘争を繰り返してきてゐるのだらうか。どうも、そのやうな気がする。

 いまひとつ考へがまとまらないので、今日はこの辺で。

小川顕太郎 Original: 2004-Mar-6;