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 Diary 2004・6月14日(MON.)

慣用読み 2

 ここ数日、マツヤマさんに借りた『シンセミア』 阿部和重著(朝日新聞社)を読んでゐる。上・下 2冊に渡る大作なのだが、内容もなかなか面白く、スラスラと読んでゐる。が、現在はちやうど下巻に入つたばかりであり、まだ全貌を掴めてゐないので、内容的な事ではなく、表面的な事に関して少し述べようと思ふ。それは、例の「慣用読み」のことである。

 この『シンセミア』においても、「捏造」といふ言葉が何回か出てくるのだが、それに「ネツゾウ」とルビが振つてあるのだ(例へば、上巻 102ページ)。ところが、ちやうど今読んでゐる下巻の 59ページに「捏ち上げ」といふ言葉が出てきて、そこにはちやんと「デッチアゲ」と正しくルビが振られてゐるのである。もし「捏造」を「デツゾウ」と正しく読むのではなく、「ネツゾウ」と慣用読みをするのなら、「捏ち上げ」は「ネッチアゲ」と読まなくてはならない。まァ、かういつた所が「慣用読み」のいい加減なところなのだが、かういふ用語の不統一が、どうにも気になつてしまうのである。

 私が推測するに、このルビは著者本人ではなく、編集者が勝手に振つてゐる可能性が高い。なぜなら、阿部和重はデビュー作『アメリカの夜』 で、大西巨人『神聖喜劇』 を引用してゐるのみならず、大西巨人の文章のパスティーシュまで行つてゐるほどなので、大西巨人のファンであると推察されるからである。周知のやうに、大西巨人は「慣用読み」の問題に非常に敏感な作家である。エッセイで何度もこの問題を取り上げてゐるし、『神聖喜劇』においても、この問題は出てきてゐた。「捏造」に関しても、取り上げられてゐたはずだ。故に、大西巨人のファンである(と推察される)阿部和重が、無自覚な「慣用読み」の使用をするとは思へないのである。(もし意志的にしてゐるのであれば、その理由が分からない)

 大西巨人の作品に影響を受けたものは、みな「慣用読み」の問題に敏感になる。まァ、オイシンのやうな例外はあるが、大抵の人は「慣用読み」の問題に敏感になつて、たとへばハッサクさんのやうに、職場で「慣用読み」の問題を巡つて闘つたりする。それが大西巨人を読むことであり、「神聖喜劇」を生きることでもあるのだから。

『シンセミア』の続きを読みます。

小川顕太郎 Original: 2004-Jun-16;
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