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 Diary 2004・1月5日(SUN.)

台湾日記
第一日目

その壱 出発

 昨年は上海に行つたからといふ訳ではないが、今年は台湾へ。出発は 16 時 55 分関空発のノースウエスト航空。昨年に較べれば随分と楽な時間の出発だ、と思つてゐたのだけれど、結局出発前はバタバタとして、家の中は散らかり放題のままで出ることになつた。

 関空の「そじ坊」で蕎麦を食べる。後ろの席のをばさんたちが、しきりに昨年の紅白の悪口を言つてゐる。興味深く思ひ、なんとなく聞き耳をたててゐたのだが、そのうち悪口はノースウエスト航空のことに移つていつた。「ほんま酷い飛行機やわ。まるで囚人みたいに扱はれる」。え!さうなのか。我々が今から乗るのは正にノースウエスト航空なんだけど。そもそもなんで我々がノースウエスト航空を選んだかといふと、North West Airlines=N.W.A. だからである。FUCK THE POLICE! …といふのはもちろん嘘で、一番値段が安かつたからである。一番値段が安い、といふのは、もちろんそれなりの理由があるとは思つてはゐたが、まさか「囚人のやうに扱はれる」とは…ギャングスタ・ラップグループの最高峰である N.W.A. と同じ名前の航空会社に相応しい評判だ。あまり嬉しくはないけれど。

 我々が免税店をブラブラしてゐると、突如われわれの名前が放送で呼ばれた。出発が 10 分早まつたので、早く乗りに来い、といふ放送だ。なんで出発が早まつてるねん、さすが N.W.A、無法だ、などとブツブツ言ひながら、飛行機へと向かう。搭乗前には厳重な荷物検査。カバンを全部開けられて、中に入つてゐたトモコの化粧箱も開けられて、眉毛切りの鋏を取り上げられた。うーむ。さらに靴まで脱がされての身体検査。身につけてゐるアクセサリーにいちいち金属探知器が反応して、往生する。ベルトまで調べられたのにはビックリした。FUCK THE POLICE! …いや、冗談です。飛行機に乗ると、うむ、確かにこれは…狭い! 狭すぎるッちゅーねん! なるほど、これが「囚人のやうに」といふやつか。つらい。で、出発。しばらくして機内食が出る。まずい。不味すぎるッちゅーねん! さうか、これが……。

 寝不足の故もあつて、機内では終始悪夢にうなされてゐた。

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その弐 les suites taipei

 今回の宿泊先に我々が選んだのは、といふかトモコが選んだのは、les suitestaipei といふ所。このホテルは、離れた場所に新館と旧館があり、一方を「慶城館」、もう一方を「大安館」といふ。我々が選んだのはもちろん、安い方、つまり「大安館」だ。それにしても、「大安館」とはあまりにも直裁なネーミング。大丈夫なのだらうか…。

 とりあへず、空港に着いた我々を、ホテルのリムジンが待つてゐた。それに乗つて、すでに暗くなつた路を台北へと向かう。車内には軽く音楽が流れてゐる。お、これは…「煙が目にしみる」だ。私の頭の中には、エドワード・ヤンの「恐怖分子」の一場面が鮮やかに甦つた。うーむ、台北が我々を迎へてくれてゐる。

 les suites taipei は、小さいが感じの良い、なかなか洒落たホテルであつた。部屋に備へ付けてある CD コンポで、Twinz の「conversation」をかける。…うーん、気持ちがいい。これは良い滞在になりさうだ。私は、自分の心配が杞憂に終はつたことを喜んだ。と、いふか、このホテルは「大安(ダーアン)路」に面してゐるから「大安館」といふのであつて、「大安(おおやす)館」と呼んでゐた私は単に勘違ひをしてゐただけであつたのだが。

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その参 ミオさんに会ふ

 ホテルには、ミオさんからメッセージが届いてゐた。さう、台北といへばミオさん。我々は事前に、台北に 3 年以上暮らすミオさんに連絡をとつておいたのだ。メッセージカードに書いてあつたミオさんの携帯電話番号に、電話する。すぐに「ウェイ」と言つて、ミオさんが出た。私は構はずに日本語で「あ、もしもし、ミオさんですか。オパールのオガワです」と応答する。すると、ガチャガチャと(ミオさんの中で)言語を切り替へる音がして、「あー、お久しぶりですー」とミオさんが日本語でこたへてくれた。なんか、嬉しい。

 さて、この後どうするか、といふ事を話あつたのだが、ミオさんは、今日はもう遅いし、明日か明後日でも時間を作れますよ、と言ふ。なるほど、もう 22 時を過ぎてゐる。しかし、我々はお腹が減つてゐた。この時間から闇雲に台北の街に繰り出していつて、ちやんとした飯にありつけるだらうか。昨年の上海の二の舞だけは避けたい。それに、初日にミオさんから色々と現地の様子を聞いておきたい、といふ気持ちもあつた。もちろん事前に情報誌などで軽く調べてきてはゐるが、かういつたものの当てにならなさは、去年の上海でイヤといふほど味はつたので、どうしてもミオさんの話を聞いておきたかつたのだ。

 その旨を伝へる。と、ミオさんはしばらく考へた後、「分かりました。今からそちらに向かひます」と答へてくれた。有り難い! …しかし、考へてみれば、私も随分と我が儘を言つたものである。ミオさんにも台北での生活があるのだ。それをいきなり、こんな夜遅くに連れ廻したりして…全く、旅行者といふのは困つたものだ。と、他人事のやうに書いてみる。ミオさんには感謝してをります。

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その四 京星港式飲茶

 23 時過ぎにホテルの前でミオさんと落ち合ふ。ミオさんはちつとも変はつてゐなかつた。対して、今やヒップホップスタイルの私。「あー、そんな格好をしてゐるとアメリカ帰りと間違へられて、英語で話しかけられますよー」と、ミオさんに言はれた。そんなもんなのか? その時の私は、まだミオさんの言ふ意味がよく分からなかつた。そのままミオさんに連れられて、「京星港式飲茶」といふ店に行く。ここは 24 時間営業をしてゐる、といふ話だが、23 時を回つた時点でも店内はほぼ満席。凄く活気に満ちてゐる。聞くところによると、台北は夜が遅いらしく、お店も 22 時、23 時までやつてゐるところが多く、24 時間営業のレストラン、本屋、スーパーマーケット、茶店、などもたくさんあつて、この点だけとれば京都よりぜんぜん都会ぢやないか! と驚嘆した。

「京星港式飲茶」では、ミオさんが北京語でジャンジャン店員さんとやりとりしてくれる。うーん、ミオさんと来て良かつた。そもそも、我々が席に着く前にすでに机の上には何種類もの皿が並べてあつて、このうち要るものだけをとり、あとは下げてもらふシステムなのだが、そんなこと、いきなりぢや分からないッて。でも、かういふたくさんの小皿に色んなものがすでに用意されてゐて、それに自分の好きな皿を加へて食べる、といふスタイルは、韓国に共通するよなァ、と、韓国に行つたこともないくせに、私は妙に感心したのであつた。

 料理もなかなかおいしい。お腹が空いてゐたので、貪るやうに食べてしまつた私は、メニュー名を書き留めるのを忘れてしまつた。が、食べてしまへば、頭はすでに次のことへ。

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その五 誠品書店

 24 時間やつてゐるといふ本屋、「誠品書店」へと行く。結構広い店内に、これまた真夜中だといふのに人がいつぱい。多くの人が、地べたに座り込み、本を読んでゐる。上海の本屋でも思つたが、かうやつて平気で地面に座り込むのは、アジア人の習性なのだらうか。近頃の日本でも、ジベタリアンとか、コンビニや本屋で座り読みをする若者たちが問題になつたりしてゐるけれど、これは日本人が先祖帰り(?)をしてゐるだけなのかもしれない。

 それにしても驚いたのは、なんと日本の雑誌が多いことよ! むろんそれらを上回るくらゐ欧米の雑誌も多いのだけれど、我々はどうしても日本の雑誌に目がいつてしまう。めぼしいビジュアル雑誌はほぼ全てあるんぢやないか? といふくらゐで、女性ファッション誌の数々を始め、「BRUTUS」などの男性誌、「芸術新潮」「STUDIO VOICE」「サライ」…・に、「ミュージックマガジン」や「bmr」まで。情報格差はあまりないな、といふ感じだ。それにしても、台湾の人たちは本当にこれらを読んでゐるのだらうか。日本語を勉強してゐる人が多いとは聞いてはゐたが、ここまで日本語が書店で溢れてゐる光景には、正直ビックリさせられた。まァ、雑誌だし、雰囲気で読むのかな、我々が洋雑誌を読むみたいに。

 日本のマンガもかなりある。が、これらは大半がこちらの言葉に訳されたもの。しかし、植田まさしまで訳されてゐるとは。日本の小説も、ほとんどが翻訳されたもの。三島や大江、川端などの定番のみならず、島田荘司や大沢在昌、宮部みゆきまで。ふーむ。

 そして「Artist 藝術家」といふ雑誌にはミオさんの文章が…「あ、その話は恥ずかしいから、辞めませう」と、ミオさん。はい、さうしますか。

 我々はそこを出て、次なる店へと向かつた。台北の夜はまだまだ続く。

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その六 NAOMI

 どこかでお酒でも飲んで、ゆつくり話をしませう、といふ事になつて、ミオさんに導かれるまま、ミオさんのオススメの店に行くためにタクシーに乗る。が、残念なことにそのお店は正月休みをとつてゐた。仕方なく、我々は「moshi moshi !?」といふ、今台湾で最もエッジの効いてゐるといふ噂の店に行くことにした。ミオさんも初めてだといふ。

 一歩足を店内に踏み込んで驚いた。こ、ここは…。毛皮の生えた壁、高い天井、薄暗い店内はボウッと青白く、ミラーボールのやうな照明器具でやたらと光りの斑が飛び回つてゐる。なぜか上の方にゐる DJ、ハウスのやうなヒップホップのやうなクラブミュージック、俺たちはイけてゐるぜ! といふ気迫に満ちた、長く伸ばした髪の裾毛だけを金に染めた二枚目の店員さん、スノッブ全開のお客様たち…と、ここまで気合ひの入りまくつた、入りすぎて血管が切れ、神経がはみ出してゐるやうな店は、さうさうお目にかかれないだらう、といふ感じだ。ミオさんがたじろぎながらも、店員さんと何か喋つてゐる。私はこれからどうなるのだらうと、固唾をのんで成り行きを見守つた。と、この店はもうすぐ閉店になるので、この店の姉妹店である「NAOMI」に行つたら、といふ事になつたやうだ。ホッとしてそこを出る。

 しかし、こんな事で安心はしてゐられない。なんと言つても「moshi moshi !?」の姉妹店である。名前は「NAOMI」である。どのやうなことになるか、と、………予想は的中した。ナオミ・キャンベルだと思つたら藤山直美だつた、といふ感じの店であつた。つまりベタベタ。ベタベタにお洒落、にきめてゐるのだ。明らかにシェイカーで振つたと分かるマティーニを飲みながら、やはり京都に較べても随分とイナカだよ台北は、と、私はひとりごちたのであつた。

 ミオさんは言ふ、「やはり日本にはお酒を飲む文化、といふのがあつてうらやましい。こちらはさういふのはなくて、カフェみたいな所で遅くまで明るく気軽にみんなでお酒を飲んだりとか、おいしいものを食べながらおいしいお酒も飲む、といふ事がないんです。お酒を飲むとなれば、こんな所か、バーみたいなところになつてしまう。また、女の子がお酒をあまり飲むことに対しても、それほど寛容ぢやないやうな気がする」

 なるほど。

 閉店の 15 分前になれば、我々のいないエリアの電気をつけて、掃除機で掃除を始めた。うるさい。なんていふか、悪い意味でのスキだらけといふ感じ。ま、我々は旅行者だから面白いけど。

 ミオさんはタクシーに乗つて帰つていつた。書き忘れたが、途中で「頂好」といふ 24 時間営業のスーパーに行つて、色々と買ひ込んだりしたのであつた。初日から、いきなり濃密な夜であつた。

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interlude 1

「ケンタロウさん、小林よしのりの『台湾論』読んできたでせう。あれ、嘘ばつかりですよ」とミオさんが言つた。

 私は『台湾論』は発売して間もなく、つまり今から 3 年ほど前に読んだ。だから細かいところは全て忘れてしまつたのだが、ミオさんのこの発言には妙に納得できる響きがあり、非常に興味深かつた。故にこの発言を巡り、いくらか考へたところを述べたいと思ふ。

 まづ『台湾論』がどのやうな本であるのか、を簡単に述べる。台湾は、言ふまでもなく戦前は日本の植民地であつた。それが日本の敗戦により日本が撤退して後は、蒋介石率ゐる国民党軍(の派遣部隊)が乗り込んできた。その国民党軍が共産党との抗争に敗れ、大陸から台湾島に逃げ込んで来てからは、台湾は国民党軍の支配する「中華民国」として、共産党の支配する大陸の「中華人民共和国」と対峙することになる。いはゆる「二つの中国」である。この時に、大陸から支配者として乗り込んできた人々を「外省人」と言ひ、もともと台湾にゐた人々を「本省人」と言ふ(今はあまり言はないやうにしてゐるやうですが)。「外省人」と「本省人」は文化も違ふし、言葉も違ふ。「外省人」が喋るのは「北京語(マンダリン)」であり、「本省人」は「台湾語」である。公用語はもちろん「北京語」。つまり台湾にゐる大部分の人たちは、二重言語生活をしてゐることになる。ちなみにミオさんは「北京語」しか喋られないとのこと。『台湾語』は分からないさうです。

 さて、小林よしのりの『台湾論』は、民族派の立場から、外からやつてきて支配してゐる「外省人」たちを「悪」として描き、「本省人」たちの「独立」を支持する、一種のプロパガンダ読み物となつてゐる。故に、かなり物事を単純化・図式化して描いてゐるところが、目につくものとなつてゐるのだ。しかし、政治、といふか、実際の生活はなかなか難しい。「外省人」の人たちもすでに半世紀に渡り台湾で暮らしてゐる訳だし、2 世の人たちも多い。彼らにも彼らなりの「リアル」な生活がある訳で、彼らに言はせれば、『台湾論』に書かれたことはあまりにも事実を歪曲して書かれた「嘘」となるだらう。『台湾論』が一時期台湾で発売禁止になつたのも、分からないではない。拙いやり方ではあると思ふけれど。

 言ひ忘れたが、私が推測するに、ミオさんはどうやら外省人系の人たちと繋がりが強さうである。それは、文化の面においても外省人系の人たちが支配してゐる台湾の現状をみれば、当然であらう。ミオさんは、美術関係の仕事をしてゐるのだから。

 今回の旅の前に、私は司馬遼太郎の『台湾紀行』を読んでいつた。どうやらこの本は『台湾論』のネタ本のひとつのやうで、「外省人」対「本省人」といふ図式を描き出して、その上で「本省人」を支持する、といふ考へかたを(ソフトに)提出したものとなつてゐる。日本においては、この考へかたを広めたのはこの本が最初のやうだ(その前に岡田英弘の『嵐の中の台湾』といふ論文など、いくつかあるやうだけれど、私は未見だし、あまりにもマニアックだと思ふ)。そして『台湾論』によつて、この考へかたは確個としたひとつの政治的主張となり、論争点にまでなつた。日本においては、李登輝元総裁のビザ問題を巡つて、新中派 vs 反中派(新台湾派)の図式を炙りだすことになつたりもしたのは、記憶に新しいところだらう。実質的にアメリカが台湾を中国から守つてゐることを考へれば、台湾は、対アメリカ・対中国にたいする(つまりは対世界の)日本の政治方針を決める、重大なポイントのひとつであることは間違ひないところ。

 さういつた意味で、現地の人の話を聞くことはかなはないが、現地に住むミオさんの話を聞くことが出来たのは幸せであつた。色々と、興味深かつたですー。

小川顕太郎 Original: 2004-Jan-16; Last updated: 2004-Jan-23