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 Diary 2004・12月7日(Tue.)

続・小説『血と骨』を読む

 幻冬舎文庫版の『血と骨』には、下巻に金石範による解説がついてゐる。色々と? な所のある解説だが、私が最も問題だと思ふのは、以下の箇所だ。

「帝国主義所産の暴力がかもす肉体の爆発が本来なら日本帝国へ向けられて然るべきなのに、運命の悪意がそれをねじ曲げる。帝国への無意識への復讐が、家族へ、家族が帝国の身代わりに。読み方によっては『血と骨』は日本帝国への激しい批判と取れぬこともないだろう。これは決して深読みではない。」

 私に言はせれば、これは最悪の形の深読みである。いはゆる「俗情との結託」といふ奴で、この小説は決してこのやうな読み方だけはしてはならない。金俊平の暴力は、日本帝国への無意識の復讐が形を変へたものではなく、金俊平の個性に帰せられるものである。日本帝国による植民地統治下で、特に金俊平だけが酷い目にあつた訳ではない。もつと酷い目にあつた人たちはゐただらうけれど、誰も金俊平にはなつてゐない。金俊平のあまりの暴力、自己中心的な考へは、やはり特異なのではないだらうか。それを「日本帝国への無意識の復讐」としてしまうと、金俊平の持つ独自性・可能性が殺されてしまう。作者の梁石日の名誉のために言つておけば、この小説は上記のやうな「俗情との結託」を避けるやうに慎重に書かれてゐる。が、それでもやはり、そのやうな読みを誘発しかねない弱点も散見するので、余計に解説には気をつけなければならないだらう。

 ところで私も、よくこの日記上で、主に映画について政治的な深読みをするけれども、その時に心掛けてゐるのは、とにかく「俗情との結託」から遠く離れることである。なぜなら「俗情との結託」は、その作品の持つ可能性を殺してしまうからだ。作品は、良質であればそれだけ様々な可能性に富んでゐるものだが、「俗情との結託」はその可能性を、貧しいがそれだけ強固な型に押し込めてしまう。私は、可能性があればそれを展開したいのだ。で、時として(いつも?)強引な説を展開するのだが、あまりに強引過ぎると、読む方は白けてしまうだらう。この匙加減が難しいのだが、それが成功してゐるかどうかはよく分からない。ま、別に私は評論を書いてゐる訳ではないので、失敗してただの珍説になつてゐても、それで呆れて貰へれば満足なのだが。

 私が思ふに、珍説は世界を救ふ。が、これ自体が珍説だな。

小川顕太郎 Original: 2004-Dec-9;
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