京都三条 カフェ・オパール Cafe Opal:Home

Home > Diary > 04 > 1206
 Diary 2004・12月6日(Mon.)

小説『血と骨』を読む

 ババさんから借りた小説『血と骨(梁石日著・幻冬舎文庫)を読む。これを読んで分かることは、映画版『血と骨』(崔洋一監督)は、この原作の一部(戦後の部分)をとりだした、といふよりは、登場人物や各エピソードをとりだして自由に再構成した、といつた趣であり、原作とはかなり違ふ話になつてゐる、といふ事である。人間関係も、ストーリーも、かなり違ふ。ほとんど別物、と言つてよいだらう。もちろん、映画といふのは原作の再現ではなく、原作を元にした独自の創造なのでそれは一向に構はないのだが、それでは崔洋一(及び共同脚本の鄭義信や映画製作者たち)は一体何を独自に創造したのであらうか。

 原作は、主に戦前から戦後に至る金俊平の半生を描いてゐるのだが、構造としては割と単純なものを持つてゐる。それは自らの腕力だけを信じ、恐ろしく自己中心的な生き方をしてきた金俊平が、老年に至つて力が衰へ、それまでの自分の生き方に復讐される、といつたものである。絶大な力を持つものが、その力を背景に恐怖と暴力で他人を支配してゐるのだが、力を失つた時にしつぺ返しを受ける、といふのは、割とありがちな話と言へるだらう。が、映画版は、この構図から微妙にずれてゐるのである。

 むろん映画でも、歳をとつた俊平は脳溢血で倒れ、以後自由に身体がきかなくなるし、虐待し続けた愛人から金をとられたり棒で殴られたりと復讐されるけれど、それでも基本的には「怪物」として不屈に生き続けてゐる。ヤクザと渡り合つたり、借金の取り立ても続けてゐる。小説では、力の衰へた俊平には誰も金を返さなくなるし、愛人による虐待ももつと酷い。そして俊平は、下半身が麻痺して糞尿にまみれながら(誰も世話してくれないのだ)、他人からの復讐に怯へて暮らすのである。ラストの北朝鮮行きにしても、映画では「最後までワガママを通した」みたいな描き方になつてゐるけれども、小説では人生に対する屈服、そしてそれによる皮肉で残酷な結末、といつた描き方になつてゐるのだ。

 要するに映画では、金俊平は最後まで人生に復讐されない。あるいは同じ事だが、最初から人生に復讐され続けてゐるのである。栄枯盛衰、みたいな分かりやすいドラマ性が希薄だ。さういつた分かりやすさに回収されるのを拒んでゐるのではないか。原作では金俊平は屈服したけれども、映画版では屈服しない。映画版の、原作とは違ふ独自性は、決して屈服しない荒ぶる魂、として金俊平を描いた事だと思ふ。決して屈服しない荒ぶる魂、と言へば、テロと世界戦争の現代に生きる我々にとつても、様々な思考を挑発する題材だらう。この映画では、ラストの寒々しい北朝鮮の風景として、自らの思想を表明してゐる。

 あれ? 小説について書くつもりが、映画について書いてしまつた。ううーん、小説についてはまた、明日にでも書くか。

小川顕太郎 Original: 2004-Dec-8;
Amazon.co.jp
関連商品を探す