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 Diary 2003・11月8日(SAT.)

教育全壊

 先日購入した雑誌「諸君!」12 月号の特集は「教育全壊」であつた。昨今騒がれてゐる「学力低下」について、如何に今の教育が駄目になつてゐるかを憂ひ、警鐘を発する、といつた内容だ。かういつた話題は面白いと相場が決まつてゐる、と購入した訳だが、読んでみると特に新しい知見は何もなく、結局斜め読みで放り出してしまつた。

 考へてみれば、御一新この方、教育は崩壊の一途を辿り、学力は低下し続けてゐるのだ。大学予備門が旧制高校に変はつた時、夏目漱石は「学力低落」を嘆いたし、リベラルな大正時代を経過することによつて、昭和の初めには大学生の「知能低下」が問題になつた。さらに戦後はますます教育の大衆化が進み、大学進学率があがるに従つて大学生の幼稚化が取りざたされ、「ゆとり教育」を経て昨今の「学力低下」騒ぎに至り、そして「教育全壊」である。「全壊」とは凄い。全て壊れてしまつた、といふ訳である。確かに、明治維新以来 100 年以上に渡つて教育は壊れ続けてきたのだ。そりゃもう粉々だらう。で、100 年以上も人々の知能は下がり続けてきたのだ、もうバカばつかりだらう。いやはや凄まじい世の中に生まれてしまつたものだ。

 どうも最近寝つきが悪く、酒を飲んだりして何とか眠りに就くやうにしてゐるのだが、今日もまた眠れなくて『斎藤緑雨全集』なんかを取りだして摘み読みしてゐた。緑雨の批評は舌鋒鋭く切れ味抜群、しかし年を経るごとにユーモアが失はれ、凄惨さのみが目立つやうになつてくる、といふのは評者の一致した意見だが、そこには低落し続ける知性に対する苛立ちが色濃く見えるやうに思ふ。確かに、一向に世に受け入れられない故に、晩年は性根が些かねじ曲がつてしまつた部分もあるかもしれないが、やはり今の目から見れば緑雨の言つてゐることは圧倒的にまともだし、増え続けるバカの群れの中で人切り与太よろしく刀を振り回し続けるその姿には、共感を覚えてしまう。結局、緑雨は貧窮の中で若死にする。その姿は、時代についていけなかつた敗者のそれだし、時代を読むことができなかつた愚か者のそれだ。が、「愚か」といふのはやはり徳であると思ふ。「徳」が「得」に繋がらないところが、なんとも悲惨なのだが、世の中とはさうしたものなのだらう。それは何時だつて。

 早く寝ないと、明日も仕事だ。

小川顕太郎 Original:2003-Nov-9;