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 Diary 2003・11月4日(TUE.)

 店が暇なので、ユキエさんとなんやかんやと喋つてゐたのだが、現在お菓子の世界ではもの凄い東京集中が起こつてゐて、東京のお菓子屋さんは大変なことになつてゐるやうだ。90 年代は、色々と有名なお菓子屋さんやパティシエが地方に店を出したり、地方の有名店が名をあげたりしたのだが、最近はまたみんな東京に戻り始め、地方の有名店もアンリ・シャルパンティエとか)次々と本店を東京に移し始めてゐるらしいのだ。さらに外国の有名お菓子屋さんも相次いで東京に店を出し、今や東京は世界一のお菓子シティーになつてゐるといふ。これが良いことなのか、悪いことなのか。正直言つて、私にはあまり良いこととは思へない。それは、お菓子に限つたことではないが、その異常な東京一極集中が、とてもぢやないが、良いこととは思へないのだ。

 なぜ、こんなに何でも東京に集中するのか。それは、たぶん日本全体が大きなひとつの「村」だからだらう。「村」といふのは、「共同体」であつて「社会」ではない。「村」の中には「他人」はをらず、故に「社会性」もない。みなと同じ、といふ「一般性」は求められるが、真理を志向する「普遍性」は求められない。「村八分への恐怖」はあるが、真の「孤独」はない。故に、「芸」も「芸術」もない。「共同体」は基本的に「ウチ」の論理で動いてゐるので、他の「共同体」や「社会」とディスコミュニケーションを起こし、それに対する対応が内部腐敗・崩壊を呼ぶ。かういつた事はこれから先、とても危険なことだと思ふし、そんな事よりなにより、私はそんな「村」は住みにくくて仕方がない。その田舎者性にはうんざりする。断つておくが、東京は巨大な村の中心であつて、必ずしも「都会」ではない。私は、東京が「都会」である、といふ事をかなり疑つてゐる。

 このやうな事態に、かなりの程度手を貸してゐるのが「テレビ」である。「テレビ」は、「村」化を進める「反社会的」な装置である。人々から、真の意味でのコミュニケーションを奪つてしまう。「テレビ」の持つこの気色悪さに無自覚な人は、まづ田舎者と断じてよいだらう。…

 書くことがないと、余計なことを書いてしまいます。

小川顕太郎 Original:2003-Nov-6;