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 Diary 2003・6月25日(WED.)

山田風太郎の
エッセイ

 最近は山田風太郎のエッセイ集『死言状(角川文庫)を持ち歩いて、パラパラ読んでゐる。風太郎のエッセイ集は、『風眼抄』といふのを読んだことがあるが、その時にも思つたのだけれど、小説に較べると、あまり面白くない。風太郎の小説は、奇想天外な頓知が盛りだくさんで、アッと驚くやうな面白さなのだが、何故かエッセイの方は、凡庸な視点が多く、楽しめない。何故なのだらう。やはり、フィクションといふ枠があつた方が、奇想は自由自在に羽ばたく、といふことか。少し、気になる。

 風太郎のエッセイは、むしろその飄々とした味を楽しむことに、眼目があるやうに思ふ。実際、エッセイから伺へるうかがへる注記風太郎像は、日がな煙草を吹かし、酒を飲み、懐手して下らない夢想に浸つてゐる、といつたもので、なかなか魅力的だ。まるで水木しげるのマンガの登場人物のやうである。が、春風駘蕩、怠惰の権化のやうな人物を描き続ける水木しげるが、実は激烈なワーカホリックである、といふ事実が示唆するやうに、本当の風太郎は、なかなかそのやうな人間ではなかつたのではないだらうか、と、私は疑つてゐる。対人関係のストレスがなく、いい加減な妄想を書いてお金を貰へる作家といふ職業は、ほんとにいい商売だ、と嘯く風太郎だが、実際はなかなかそのやうなものではなかつたのではないか、と考へてゐる。あれだけのエンターテインメント作品を書くには、相当の苦労・心労があつたに相違ないと、固く信じてゐる。だつて、さう思はなければ、やつてられないではないか。私が、この一文にもならない駄文を書くのに、どれだけの労力を費やしてゐることか!

 私だつて、別に大金を儲けなくてもよいから、飄々と人生をやり過ごしたかつたのだ。それには、カフェの店主といふのも、なかなか良いかもしれん、と、思つた時期もあつた。しかし、現実は、全く違ふ。多大なストレスに押しつぶされさうだ…といふのは、やはり大袈裟かな。ははは。ま、今日も何とか紙面を埋められたし、よしとするか。

注記
「伺へる」とあるのは「窺へる」の間違ひではないか? といふ指摘のメールをもらひました。確かに、常識的に考へれば、その通りなのです。実際、私も単なる打ち間違ひでした。が、「広辞苑」にあたつてみると、どちらでも良いやうなことが書いてあるのです。とはいへ、「広辞苑」も結構あてにならないといふ話ですし、悩んだ結果、「うかがへる」とひらがなに直したいと思ひます。
小川顕太郎
Original: 2003-Jun-27;